夜明け前に、雷のけたたましい音とともに、激しい雨が降りました。
それは、「一夜、沛然(はいぜん)として大地を打つ豪雨」のようでした‥‥。
さて、町立図書館で借りてきた『人生は愉快だ』(池田晶子著:毎日新聞社)を読了しました。
本書の第一章は、「死(あっち、ない)を問う人々ーー語り、騙り、物語る」というタイトルで、
ニーチェ、ハイデガー、西田幾多郎など、古今東西の名立たる哲学者たちの、
「死」についての思索とその言及について書かれたものですが、
私はそのなかでも、スピノザについての次のような記述が、強く印象に残りました。
『「神即自然」。この人はそう言った。神はすべてに存し、すべては神に存する。
キリスト教の神ではない。道徳的でも人格的でもない、非人格的な存在そのもの。
永遠的で必然的な宇宙的秩序。有限な個々の事物は、その無限な存在の一様態であるにすぎず、
それはあたかも大海に生起する一瞬の波浪のようなものである。
そう見るこの人にとって、どうして今さら、個人の自己性や魂の不死性が問題になり得よう。
そんなものはすべて錯覚である。すべて無限者の思惟のうちに消滅するものである。
「人間」すらが存在しない。それならそれ以上何が問題になり得よう。
唐突だが、西洋合理主義の権化のようなこの人の見ていた光景は、仏陀のそれに近いのではなかろうか。
「因果の理法」と仏陀は言った。宇宙の一切は因果の縁起で生起する。
時間的因果ではない。無時間的すなわち永遠的因果である。
「永遠の相の下に」一切を観照したスピノザのそれは、西洋では稀なものだ。
永遠を観る者に死後は不要とするそれが、異端として排斥されたのは当然である。』
そして、なんと言っても、「エピローグーー無から始まる思索」における
著者の次のような言葉は、胸を打つものがありました。
『死は人生のどこにもない。そう認識すれば、現在しかない、すべてが現在だということに気がつくはずです。
人は死があると思って生きているから、生まれてから死に向かって時間は流れていると思っています。
社会もその前提で動いています。
このことを、とりあえず前提としてそういうふうにやっていると自覚していればいいのです。
真実はそうではない。死がないとわかった時、時間は流れなくなるのです。
そうすると、現在しかなくなってしまう。そうなれば、過去も現在にあるということに気がつく。
それが、年齢を重ねることの面白さでもあるのです。現在という瞬間に時間が層をなしている。
年をとると、その層がだんだん厚みを増していきますから、反芻することが非常に面白くなっていきます。
現在を味わうこと、現在において過去を味わうことが年をとることの醍醐味になる。
年をとると、みな歴史の本を読むようになりますが、なぜ歴史に帰るのか。
年を重ねると自分の歴史と人類の歴史とが重なってくるからです。
人間はこんなふうに地上に生まれ、ここまでやってきたということが、
まるで自分のことのように感じられる。そうなると、年をとることはけっして退屈なことではなくなる。
自分の過去だけでなく人類の歴史や宇宙の存在にまで視野が広がっていく。
そういうものへの味わいが深くなっていく。年をとることは、ある意味で個人を捨てていくことと思う。
それができると、年をとることが非常に面白いことになっていくと思うのです。』
う~む、なるほど‥‥。
「現在において過去を味わうことが年をとることの醍醐味になる」、
「年をとることは、ある意味で個人を捨てていくこと」ですか‥‥。
年をとることが、なんだかポジティブなことのように思えるようになりました。
そうそう、そういえば、本書の巻頭には、著者の次のような名言がありました。
「考える精神は、誰のものでもなく、不滅です」
はぃ、分かっています。「悩むな、考えよ。」ですよね‥‥。