「国家と個人の緊張関係について」と題する論評を寄稿されていました。
今回のウクライナ危機に関連して、「否応(いやおう)なく国家と運命をともにし、
生きざるをえない人間とは何なのか。国家とは、個人とは何か。」について、
1980年当時の、「清水幾太郎」と「福田恆存」という二人の思想家の議論を紹介されていたものです。
そして、論評の最後には、次のように述べられていました。
『42年前に戦わされた、2人の保守知識人の言葉から、何を学ぶことができるだろうか。
当時と現在に共通するのは、米国の相対的な国際的地位の低下という現実だ。
また核配備の可否をめぐり日本人にとって「国家とは何か」を直視せねばならないという現実だ。
だがウクライナ危機から2カ月あまり、知識人の言論活動を見る限り、
議論は硬直化しているように見える。
さすがに当時の進歩派のようにソ連を平和主義の象徴という者はいない。
ただ清水のように、米国の世界戦略を相対化し日本の立場を考える言論は少ない。
また福田のように、歴史と伝統から個人と国家の関係を考える本質的議論は皆無だ。
令和の言論人たちは今回の危機にたいし、どのような言葉を後世に遺(のこ)せるのか。』
ここでいう清水の主張とは、「70年代に入り米国の国力が低下する中でもう米国依存だけでは生き残れない、
だから核武装も視野に入れるべきだ」というもので、
福田の主張とは、「個性とは、歴史と自然を身にまとい充(み)たされた心情をもつ存在のことである。
常に権利を主張し、世界であれ家庭内であれ、すべてを支配と被支配で色分けし、差別を糾弾し、
怒りに心を占領された左派的個人主義とは全く異なる顔つきをしている」というものでした。
「1980年」と言えば、私は25歳になる年で、社会人としての一歩を踏み出した年でもあったのですが、
このような保守知識人の議論があったことは、まったく知りませんでし、
ましてや「国家とは、個人とは何か」についてなど、考えたこともありませんでした。
令和の時代の緊迫した国際情勢のなかを生きる今は、「国家」と「個人」についての言論人の言葉にも、
注目していきたい、論評を読んでそう思った次第です。