『高坂正堯と戦後日本』(五百旗頭真/中西寛 編)を読了しました。
こちらも長く書棚に眠っていました‥。
本書の中では特に、中西寛先生の「権力政治のアンチノミー~高坂正堯の日本外交論」という論評が、
さらにその中でも、高坂正堯と三島由紀夫との関連性についての次の記述が印象に残りました。
『‥‥その高坂と三島が同席したと推定される機会が分かる範囲で少なくとも二度あり、
そのいずれもが象徴的な場所であった。
一度目は、左派の学生運動に反発した右派学生が結成した全日本学生国防会議の結成大会
(1968年6月15日)であった。‥‥
‥‥二度目は、福田恒存の呼びかけで1968年に田中美知太郎が理事長として発足した
日本文化会議の第一回シンポジウム「日本は国家か」(1969年4月12、13日開催)である。
この会議のテーマは高坂が設定したものであり、高坂は「「権力なき国家」の幻想」という問題提起を行い、
三島はパネリストの一人として参加した。高坂の論旨は、現代社会は強大な管理能力を国家に与える一方で、
あたかも権力が存在しないかのような幻想を膨らませ、
結果として巨大な権力支配を生み出してしまう危険を説いたものであった。これに対して三島は、
高坂の分析の鋭さを評価しつつも、日本人にはそもそも権力や国家といった観念が薄く、
むしろ精神的部分、「魂の内面性の部分に、国家が錨をおろす」ことが理想的だとコメントした。
このやりとりにも高坂と三島が問題意識を共有しつつ、
しかも異なる解答を出そうとしていたことが読み取れる。
要約してしまえば高坂はあくまで近代主義的な思考の枠内での解決策を追求したのに対し、
三島は精神的な深奥への探究、それも三島が考える日本的な文化に根ざす自己犠牲によって
解決策を見いだそうとしたのである。
三島の行動主義は加速していき、やがて70年11月25日の自決へとつながった。‥‥』
う~む‥‥。
高坂正堯、三島由紀夫、福田恒存、田中美知太郎、森田必勝(まさかつ)‥。すごい名前が登場します。
それにしても、高坂と三島にこのような関連性があったとは‥。
今、「日本は国家か」と問われた時、私たちはどのような解答が用意できるのでしょうか‥‥?