しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

険しい正常化への道

今日18日は、日経新聞愛媛新聞も休刊の日です。

そこで、いつもより時間をかけて電子版に目を通していたところ、

日経新聞電子版の「マネー底流潮流」に、著名投資家、ウォーレン・バフェット氏の

「潮が引いて初めて誰が裸で泳いでいたかが分かる」という言葉ありました。

 

どういう意味なのか興味が沸いて、記事の続きを読んでみると、

米国をはじめ、カナダ、ユーロ圏、英国など主要国が金融緩和の縮小に転換し始め、

市場でも、緩和に支えられた資産を敬遠する動きが広がっているとのことで、

具体的には、次のようなことが書いてありました。

 

『資産価格は金利の影響を大きく受ける。

 金利が低いと借り入れコストが低下するため、資産に求める収益も下がり、

 高い価格での投資が許容されやすい。

 金融危機から8年も低金利が続き、あらゆる資産の価格は高くなってしまった。

 金利が上がれば、資産から得られる収益も増えないと、価格は下がってしまう。

 下がりやすい資産はどこか。「緩和依存度」での選別が始まった。』

 

う~む……、これってどういうことなのかな…?

金融政策の知識が乏しい私は、記事の意味がよく分かりません。

そこで、関連記事を電子版で閲覧していると、

今月15日の記事に次のような解説を見つけました。

 

『米欧が金融政策を転換するのは、

 過剰なマネーの供給で不動産などの資産価格が

 跳ね上がるリスクが高まっているからだ。

 超低金利状態をつくって金融機関や企業をよりリスクの高い投融資に誘導した結果、

 カナダでは都市部の住宅価格が金融危機前の2倍に上昇。

 米国でも商業不動産価格は危機前の1.3倍に跳ね上がり、

 中国・上海の住宅価格は平均年収の20倍と、バブル期の東京を上回る水準だ。』

 

『未曽有のマネー供給にもかかわらず各国の消費者物価の伸びは鈍く、

 出口の手綱さばきを誤れば物価の腰を折る懸念がある。

 米国は1~6月期の新車販売は8年ぶりの前年割れに転落。

 利上げ後の自動車ローンの貸し渋りが追い打ちをかけた。

 「金融緩和の本質は結局、需要の先食いでしかない」と中銀首脳OBの一人は語る。

 景気をかろうじて浮揚させてきた緩和マネーの縮小は大きなリスクと裏腹だ。』

 

う~む、なるほど……。

金融緩和の本質って、「需要の先食い」なのですね。

金融政策正常化の道が険しいことだけは、なんとか理解できたように思います。

それにしても、冒頭のバフェット氏の言葉は強いインパクトがありますね。

この言葉を、私でも使えるような場面は、どこかにないものかしら……?

こころのありよう

『行人(こうじん)』(夏目漱石著:集英社文庫)を読了しました。

 

たくさん印象に残った記述がありましたが、

やはり、なんと言っても、小説の語り手役の二郎が、

兄・一郎の友人Hから受け取った手紙の中に書かれていた

兄・一郎の次のような言葉でした。

 

『自分のしていることが、

 自分の目的(エンド)になっていないほど苦しいことはない。』

『人間の不安は科学の発展からくる。

 進んで止まることを知らない科学は、

 かつて我々に止まることを許してくれたことがない。

 徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、

 それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。

 どこまで伴れていかれるか分からない。実に恐ろしい』

『人間全体が幾世紀かのちに到着すべき運命を、

 僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。

 一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、

 縮めていえば一ケ月間乃至一週間でも、

 依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。

 ~(略)~ 要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、

 そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している』

『自分に誠実でないものは、決して他人に誠実でありえない』

『根本義は死んでも生きても同じことにならなければ、

 どうしても安心は得られない。

 すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、

 僕はぜひとも生死を超越しなければ駄目だと思う』

 

本書の巻末に書かれていた精神科医の藤本直樹さんの解説によると、

この『行人』という作品は、

「1912年の12月から翌年の春にかけての半年あまり、

そして漱石胃潰瘍の療養による五カ月ほどの中断を挿んで、

翌年の11月まで三カ月ほど朝日新聞に連載されたもので、

漱石が死ぬ四年前のまる一年を費やした長編」とのことでした。

また、この「一郎」という人間は、

漱石の小説に出てくる人物のなかで最も病的な人物である」と指摘されていました。

 

さらに、次のようにも述べられていました。

『家庭内で家庭的交流のネットワークから引きこもり、ひとりで学問をし、

 時に理不尽なことを口走って暴力的なふるまいを突出させながらも、

 外の社会では穏やかで雅量のある人物として通用する人間。

 「発病」以前の一郎のありさまは、まさに漱石自身の姿を彷彿とさせる。』

 

「子規・漱石の生誕150年」という年に手に取った本書でしたが、

漱石が生きた時代の知識人の、「こころのありよう」を学ぶことができました。

150年経っても、一郎の「不安」=漱石の「不安」は、

現代社会に生きる私たちの「不安」に、

「十分共通するのものがあるのではないか」と感じた次第です。

 

行人 (集英社文庫)

行人 (集英社文庫)

 

 

 

 

昔の夏が好き

一昨日14日の朝日新聞天声人語」に、

朝日川柳の〈夏が好きされど昔の夏が好き〉という句に、

「何度もうなづいてしまった」というコラムニストのお言葉があり、

これを読んだ私も、その言葉に何度もうなづいた次第です。

 

三連休の中日の今日は、厳しい暑さとなりました。

エアコンの冷気が苦手な私は、

家のなかで少しでも涼しい居場所を見つけようとしますが、

それはむなしい努力に過ぎないことに気づくのに時間はかかりませんでした。

 

大きなため息をつきながら、

「昔の夏もこんなに暑かったかな?」と自問してみても、

明確な答えを記憶から思い起こすことはできません……。

ただ、子どもの頃、夏は大好きな季節でした。

生まれた今の場所も、そして、母の実家があった伊予市双海町も、

海に近いこともあって、夕暮れ時までその海で遊んでいましたから、

酷暑の記憶も薄いのかもしれません。私にとって、海は夏の同義語でした。

 

そして、寝転びながら新聞を読んでいると、

今日16日の日経新聞「文化欄」で、

ノンフィクション作家の星野博美さんが書かれた

『伯母を想う夏休み』というタイトルの随想の中に、次のような文章を見つけました。

 

『田舎……私にとってそれは、母の実家がある千葉県の外房の海を指した。

 私の夏休みに、山の入りこむ隙はなかった。

 とにかく、寝ても覚めても、何もかもが海だ。

 母の実家は、歩いて海へ行けるところにあった。

 私は年子の姉と、たいていは2週間、年によっては3週間ほど、

 そこで過ごす習慣だった。そこで待っていてくれたのは、

 母方の祖父と伯母夫妻だった。』

 

この文章の中の「千葉県の外房の海」を「伊予市双海町の海」に、

「年子の姉」を「5歳年下の弟」に、

「母方の祖父と伯母夫婦」を「母方の祖父母と叔父夫婦」に置き換えると、

私の子どもの頃の原風景になります。

 

やはり私も、夏休みに思いっきり遊んだ〈されど昔の夏が好き〉です……。

 

元気と勇気の源(みなもと)

三連休初日の今日15日の土曜日は、

午前9時からのMRI再検査のため、かかりつけの脳神経外科に行ってきました。

画像診断の結果、副鼻腔炎はほぼ完治していて、

脳血管の微妙な異常も正常に戻っている旨、先生の説明がありました。

 

盛りだくさん飲んでいた薬も、今日でようやく、

めまい関連の二つの薬と睡眠剤だけになりました。

薬が減ったというだけで、なんだか身体が快方に向かっているようで、

小心者の私にとっては、安心材料のひとつとなります。(苦笑)

 

そして、気分を良くした私は、

午後からは、お隣の伊予市の中心地・郡中地区にある

『天然の湯 いよ温泉』に、自転車で行ってきました。

施設内はまるで銭湯のような昔ながらの雰囲気ですが、

お湯は地下1000mから湧き出る、れっきとした天然温泉で、

湯上りのすべすべとした爽快感は、また格別なものがあります。

 

温泉からの帰り道は、久しぶりに海岸周りで夕日を見に行くことにしました。

日没には若干早い時間帯でしたが、

デジカメの「夕日モード」で撮影すると、下のような写真となりました。

約4か月ぶりに見る夕日……。

その美しい輝きと佇まいは、いつも私に元気と勇気を与えてくれます。

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再挑戦の土台づくり

今日14日の日経新聞一面コラム「春秋」によると、

甲子園球場での夏の全国高校野球は、今年が99回目になるそうです。

「晴れの舞台をめざし、各地で予選がまっ盛り」とのことで、

愛媛県でも昨日から地区予選の熱い戦いが始まったところです。

 

どの高校が甲子園への切符を手にするのか、

予想するのが困難なほど実力が伯仲しているように私は思うのですが、

球児の皆さんは、どんな展開になろうとも、

最後の最後まで全力で戦ってほしいと願っています。

なお、先ほどのコラムには、次のようなことも書かれていました。

 

ブラスバンドやOBらも含め、スタンドはムードの盛り上げに懸命だ。

 走者を一掃する一打に一瞬、場内は静まり、

 ゲームセットで悲鳴のような歓声がわく。ここでは敗者が多数派だ。

 甲子園への切符を手にするまでの道の険しさを改めて思う。

 一方で、常勝を求められる強豪チームのプレッシャーも相当なもののようだ。

 夏の甲子園で2004年、05年と連覇した北海道の駒大苫小牧高。

 当時の香田誉士史監督は自身の評伝「勝ち過ぎた監督」で、

 最初の優勝後の1年間の重圧を「百キロのバーベル」とたとえた。

 2度目の優勝時には「顔が引きつっちゃって」。

 06年も決勝に駒を進めたが、対戦相手に点を入れてほしいとさえ思ったという。

 勝ち続けることはきわめて難しい。いつかは誰もが敗れる。

 徳島・池田高を率いた名将、蔦(つた)文也監督はこんな言葉を残した。

 「人生は敗者復活戦」。負けて涙を流す皆さん、負けにこそ学ぼう。』

 

「人生は敗者復活戦」……。確かに、そのとおりですね。

そのためには、高校野球に限らず、

人生のさまざまな局面で失敗や挫折を経験した際に、

再度挑戦できるような土台づくりや風土づくりが、

個人にも社会にも必要ではないかと強く感じた次第です。