『行人(こうじん)』(夏目漱石著:集英社文庫)を読了しました。
たくさん印象に残った記述がありましたが、
やはり、なんと言っても、小説の語り手役の二郎が、
兄・一郎の友人Hから受け取った手紙の中に書かれていた
兄・一郎の次のような言葉でした。
『自分のしていることが、
自分の目的(エンド)になっていないほど苦しいことはない。』
『人間の不安は科学の発展からくる。
進んで止まることを知らない科学は、
かつて我々に止まることを許してくれたことがない。
徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、
それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。
どこまで伴れていかれるか分からない。実に恐ろしい』
『人間全体が幾世紀かのちに到着すべき運命を、
僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい。
一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、
縮めていえば一ケ月間乃至一週間でも、
依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい。
~(略)~ 要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、
そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している』
『自分に誠実でないものは、決して他人に誠実でありえない』
『根本義は死んでも生きても同じことにならなければ、
どうしても安心は得られない。
すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、
僕はぜひとも生死を超越しなければ駄目だと思う』
本書の巻末に書かれていた精神科医の藤本直樹さんの解説によると、
この『行人』という作品は、
「1912年の12月から翌年の春にかけての半年あまり、
翌年の11月まで三カ月ほど朝日新聞に連載されたもので、
漱石が死ぬ四年前のまる一年を費やした長編」とのことでした。
また、この「一郎」という人間は、
「漱石の小説に出てくる人物のなかで最も病的な人物である」と指摘されていました。
さらに、次のようにも述べられていました。
『家庭内で家庭的交流のネットワークから引きこもり、ひとりで学問をし、
時に理不尽なことを口走って暴力的なふるまいを突出させながらも、
外の社会では穏やかで雅量のある人物として通用する人間。
「発病」以前の一郎のありさまは、まさに漱石自身の姿を彷彿とさせる。』
「子規・漱石の生誕150年」という年に手に取った本書でしたが、
漱石が生きた時代の知識人の、「こころのありよう」を学ぶことができました。
150年経っても、一郎の「不安」=漱石の「不安」は、
現代社会に生きる私たちの「不安」に、
「十分共通するのものがあるのではないか」と感じた次第です。