しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

某国の行動原理を知る

北朝鮮という、ほとんど意味不明の国の行動原理を理解するうえで、

今月8日付けの「溜池通信vol.624」が大変参考になりました。

 

「かんべえ」さんこと、双日総合研究所吉崎達彦さんは、

古いけれども有益な法則があるとして、

かつて月刊誌に寄稿された神谷防衛大学教授の論文を紹介されていました。

そこには、11の行動原理が書かれていましたが、

そのいくつかの行動原理を、この日記でも引用させていただきます。

 

北朝鮮は、生存を望み、自殺行為をしない。

北朝鮮は、成果の見込める武力行使はする可能性がある。

北朝鮮の意思決定は、経済合理性にのみ従っているわけではない。

北朝鮮は、力の論理には敏感に反応する。

北朝鮮は、国力のあらゆる指標から見て弱小国である。

・日朝関係が改善すれば、北朝鮮には大きな利益がもたらされる。

・日本には、日朝関係を改善しなければならない切実な理由はない。

 

う~む、なるほど……。そういうものですか。

「かんべえ」さんによると、北朝鮮は建国以来、自殺行為をしたことがなく、

「力の論理」には反応するので、抑止が聞きやすい相手でもあるとのことでした。

かつて「ABCD包囲網」という経済制裁を受けて、

太平洋戦争に踏み切った我が国とは、考え方が根本的に違うのが理解できました。

先の大戦における日本の「失敗の本質」を、他山の石にしているのかもしれません。

 

それはそうと、さきほどの行動原理には

「日本には、日朝関係を改善しなければならない切実な理由はない。」がありました。

私にはよく分かりませんが、

「切実な理由はない」というのは、今でも当てはまるのでしょうか…?

北朝鮮の度重なる挑発行為に対する国際社会の制裁措置強化には賛同しますが、

一方では、拉致問題の解決が遠のくようで、そのことがとても気になります。

失われた本来の日本人らしさ

『無私の日本人』(磯田道史著:文春新書)を読了しました。

深く感銘し、また、心が洗われた本でした。

 

本書は、「穀田屋十三郎」、「中根東里」及び「大田垣蓮月」という

江戸時代の三人の生きざま、

そして、その三人が持つ「無私の精神」を丁寧に描いていますが、

著者は執筆の動機を「あとがき」で次のように述べられていました。

 

『いま東アジアを席巻しているものは、自他を峻別し、

 他人と競争する社会経済のあり方である。

 大陸や半島の人々には、元来、これがあっていたのかもしれない。

 競争の厳しさとひきかえに

 「経済成長」をやりたい人々の生き方を否定するつもりはない。

 しかし、わたしには、どこかしら、それに入ってはいけない思いがある。

 「そこに、ほんとうに、人の幸せがあるのですか」という、

 立ち止まりが心のなかにあって、どうしても入っていけない。

 この国には、それとはもっとちがった深い哲学がある。

 しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。

 それがこの国に数々の奇跡をおこした。わたしはそのことを誇りに思っている。

 この国にとってこわいのは、隣より貧しくなることではない。

 ほんとうにこわいのは、本来、日本人がもっているこのきちんとした確信が

 失われることである。ここは自分の心に正直に書きたいものを書こうと思い、

 わたしは筆を走らせた。』

 

なるほど、深い哲学ですか……。

私は、この三人のなかでも、大田垣蓮月の生きざまに強く心を打たれました。

それは「自他平等の修行」という、次のような「哲学」です。

『 ~(略)~ ところが、そのうち、そもそも自分というものに、こだわるから、

 そんな小さなことに悩み苦しむのではないか、と考えはじめた。

 自分などは、とるに足らない小さなものだ。

 自分の名誉を護るなどという心を一切ふり捨てて生きれば、

 つまらないことで苦しまなくてもすむのではないか。

 そもそも、自分の心身は人にいわれて腹を立てるほど、きれいなものでもない。

 むしろ、穢れている。もし、世の中が清らかであったなら、

 とても暮らしていけないであろう。つまるところ、自分にとって必要なのは、

 ーー自他平等の修行 なのではないか。心に自分と他人の差別をなくする修行を

 生涯つづけることではないか、と思い定めた。』

 

数学者で作家の藤原正彦さんが本書の「解説」で述べられているように、

「日本人の誇るべき、そして近年忘れられてきた美徳」というものを、

改めて考えさせてくれる、貴重な「名著」だと思います。

 

無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

「悠久」、あるいは「劫初」?

肩こりのせいなのでしょうか、口内炎ができたので、

今日は午後4時頃に、いつもの漢方薬草湯・「元気人村」に行ってきました。

薬草湯に身体を浸した日は、夜中にトイレに起きる回数も少なくなって、

翌日に目を覚ますと、疲労がいくぶんか回復していることを実感します。

 

これからは、毎月第二・第四の土曜日、定期的に薬草湯に入って、

家路につく前に、西の海岸に沈む夕日を眺めて帰ろうかなと思っています。

今日は、夕日が沈む時間にはまだ早かったので、

「元気人村」から松山方面に向かって一枚だけ写真を撮りました。(ピンボケです…)

 

トワ・エ・モアの「誰もいない海」の歌詞では、

♬ 今はもう秋 誰もいない海……となっていますが、

若い女子中学生の数人が、静かな波打ち際で仲良く戯れていました。

やはり海には若者が良くお似合いです……。

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あっ、そうそう……、夕日で思い出しました。

今回、「太陽フレア」と呼ばれる、太陽表面での大きな爆発が起きたようです。

GPSなどに障害が出るのでは…という報道もありましたが、

幸いにも大きな被害がなくてよかったです…。

 

夕日に郷愁やロマンを感じるこの私ですが、

太陽そのものは驚異的な存在なのですね。

今日9日の朝日新聞天声人語」には、

その太陽について次のように書かれていました。

『太陽は植物を育み、動物を生かす。

 光、熱、エネルギーも、太陽からもたらされる。

 これからも地球を守り続けてくれるのか。

 生まれてから46億年の太陽の歴史を私たちはほんの少ししか知らない。』

 

46億年ですか……。(絶句) 

「悠久」、あるいは「劫初」の世界ですね。

些細なことで落ち込んだり、悩んだりする自分がこの世に存在することさえ、

太陽の前では、ほんの一瞬の偶然のように思えてきます。

 

心が静まっていく感覚

今日は金曜日。やっと一週間の勤務が終わりました。

健康に不安があるなかでのフルタイム勤務は、正直、しんどいです。

高額の宝くじに当たったら、即、仕事を止めることができるのになぁ~、

と思うことも度々あります。

一方で、崇拝する安岡正篤先生の次のような言葉に触れると、

そんな気持ちを持つ自分がとても情けなくなります……。(反省)

 

『生命力はいかにして強くなるか。

 それはあくまでも根気ある辛抱強い日常の自律自修に由る。鍛錬陶冶に依る。

 意志と知能と筋骨の意識的努力、心臓・血管・内分泌腺

 その他生理的全体系の無意識的努力、自己に規律を課し、

 自己を支配する修練を積んで始めて発達する。

 安逸と放縦とは生命の害毒であり、敵である。』(安岡正篤一日一言:致知出版社)

 

さて、話は変わりますが、

先月25日のこの日記で、「消えゆく書店」のことを書きましたが、

今日8日の日経新聞「春秋」では、次のようなことが書かれていました。

 

『あすの土曜日、いっぷう変わった書店が開業する。場所は東京の下町、日本橋浜町

 2階まで吹き抜けの壁に科学、歴史、美術、建築、花、料理などの本が

 ずらりと並ぶ。店は本格的なカフェを兼ね、食事やコーヒーも楽しめる。

 しかけたのは老舗企業の安田不動産だ。  ~(略)~

 大手から零細店まで、書店の廃業が止まらない。

 新刊書店のない自治体は全国で2割に達したという。

 引き金のひとつはネット通販だ。

 手軽に探せ、関連本も表示され、家まで届けてくれる。

 そんなネット通販にも弱みがあるのでは……。

 地域おこしに詳しく、安田不動産の依頼で今回の新店を企画した水代優さんは語る。

 店なら多種多様な本を一気に見渡せる。本を手がかりに人と出会うのも楽しい。

 ネットのお薦め機能も、突っ込んで本を探すには物足りないと水代さん。

 何より、書棚の前に立つと心が静まっていく感覚は捨てがたい。

 国際情勢に国内政治と、気持ちをざわつかせることの多い時代こそ、

 書店のような空間は貴重なのだが。』

 

このコラムのなかの、

「何より、書棚の前に立つと心が静まっていく感覚は捨てがたい」という記述は、

まことにもってそのとおりで、これこそが、

ネット通販では味わうことのできない書店の魅力ではないかと思います。

明日と明後日の休日、

私はきっと、買い物帰りにいつもの書店に足が向かうはずです……。

追記

宝くじ売り場にも足が向かうかもしれません。(笑)

地方自治に関する頭の体操

最近、「地方自治」に関する二つの記事に目が留まりました。

その一つは、9月9日号の週刊東洋経済「経済を見る眼」に掲載されていた

佐藤主光・一橋大学大学院教授の「自治体基金」に関する次のような論評でした。

 

『将来の借金返済などに備え、地方自治体は財政調整基金などを積み立ててきた。

 それら基金の残高が

 20.8兆円(2014年度実績)に達したことが話題になっている。

       ~(略)~  

 加えて、基金増の背景には自治体の国に対する不信があるようだ。

 近年、地域間の財政力格差を是正するため法人住民税の国税化が進んでいる。

 また、小泉政権が進めた「三位一体改革」では、地方交付税補助金が減額された。

 こうした経緯から自治体が法人住民税のさらなる国税化や交付税の減額に備えて

 基金を積んでいる面は否めない。

 将来不安が貯蓄を高めるのは家計や企業と変わらない。

 このように、21兆円に上る地方の基金残高は

 不安定な税収や地方圏における人口減少、地方の国への不信など

 地方財政をめぐる現状を象徴するものといえよう。

 貯まった基金をどうするかとともに、これらの課題への取り組みが求められる。』

 

この記事を読んで、平成15~16年頃の「地財ショック」を思い出しました。

この当時の手痛い経験が 基金を積み立てる一つの動機になっていることは間違いなく、

「将来不安が貯蓄を高めるのは家計や企業と変わらない」というのは

上手な表現だと思いました。将来不安は個人に限ったことではないのですね……。

 

もう一つは、昨日6日の朝日新聞天声人語」に書かれていた

「週末議員」に関する次のような記述でした。

 

『日曜大工、週末起業、週末アイドル……。

 本業以外の何かに打ち込むスタイルは様々だ。

 さてこれからは「週末議員」も誕生するか。

 そう思わせる動きが長野県喬木(たかぎ)村から出た。

 村議会の日程を大きく改め、議員が村長らをただす一般質問は休日に、

 突っ込んだ議論をする常任委員会は平日午後7時からにする方針という。

 議員のなり手不足に悩み、仕事と議会活動の両立を探った結果だ。

 苦肉の策に見えて、広く自治体の議会を変える妙案かもしれない。

 多くの地域で、自営業者や勤めを引退した人に議員が偏る傾向が見られる。

 子育て世代などが週末議員になれば、地方自治に新しい風が吹くのではないか。』

 

う~む、……。(沈黙) 

お気持ちはよく分かりますが、「週末議員」の誕生は、

理事者側・議員側双方の負担などを考えると、ハードルは高いように感じます。

むしろ、自治体議員が「職業としての政治家」として活動できるよう、

しかるべき報酬を支給すべきだと私は思っています。違うかしら……?

 

二つの記事を読んで、久しぶりに地方自治に関する頭の体操をしました。