今日(15日)は、夏季休暇を取得して、
父と妻と私の3人で、お墓参りに行ってきました。
お墓参りに行くといっても、我が家のお墓は県立伊予高校の隣、
自宅からは車で約5〜7分の近距離にあります。
さて、お墓参りに関連して、
今日の愛媛新聞の一面コラム「地軸」には、次のような一節がありました。
『いま墓前で手をあわせ振り返ると、幼少期の感覚が胸に迫る。
あれから幾人もの家族、親族を見送った。
そのたびに、人の生と死について考え、涙も流した。
先祖を供養することは、つまり自らの生きざまをただし、反省することでもある。
ことしも「自省の日」が来た。
目を閉じると、故人の思い出が鮮やかによみがえる。
悠久の世代交代の結果が自分だとあらためて自覚、盆の意味を思う。』
この一節を読んで、
相田みつをさんの詩、『つまづいたおかげで』の一節を思い起こしました。
『だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で 親切な人の暖かさも知りました
そして……
身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと
いま ここに 生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました』
私の場合は、身近な人の死に逢うたびに、
気が弱くなり、そして涙もろくなっていく自分を発見します。
ところで、今日の「地軸」の冒頭は、
『母の実家は、海辺のささやかな集落にあった。
母方の祖母は厳格な人で、里帰りのたびに背筋が伸びた。』という文章でした。
私の母の実家も「海辺のささやかな集落」にあります。
幼少期の感覚といい、墓前に手をあわせた時の心境といい、
人生の「バックグラウンド」が同じような気がして、
「地軸」のコラムニストに、何とも言えない共感、親近感を覚えた次第です。