「21世紀構想懇談会」第6回会合の議事要旨を読みました。
今回は、山内昌之・東京大学名誉教授が
『未来が過去を変える〜歴史の中の「戦後70周年」』というテーマで発表されています。
読み応えのある内容でしたが、なかでも特に印象に残った記述を、
少々長くなりますが、この日記に書き残しておこうと思います。
・日本と中韓の関係を見ればかるように、
歴史認識は単純に過去のみ関わる問題ではなく、
むしろ過去以上に、それぞれの時代を生きる人々の問題である。
そこには現代を生きる我々の状況が複雑に反映しているという点に、
歴史認識の難しさがある。
・「論語」八佾(はちいつ)篇を引いて私が理想論を語れば、
「成事不説 遂事不諌 既往不咎」
(セイジハトカズ スイジハイサメズ キオウハトガメズ)
ということではないか。
つまり、後世の人間達にいつまでも起きたことについて語る、
これはやはり孔子が説いているように、
起きたことについてはもはや語らない、済んだことは、もはや叱らない、
過去の過ちはもはや咎めない、
そういう時期がいつか来る、あるいは来ると信じなければ、
そもそも国交や関係の正常化、関係の深化というものは生まれない。
1000年経っても「加害者」と「被害者」の関係は不変であるという
独自の「時間区分」や「時間軸」を出されると、
現代を生きている我々はともかく、
我々自身が現代の歴史に生きている者として、
未来後世の国民への責任を負いかねるということになる。
・私は25年ほど前、まだ若かった頃に
「ラディカル・ヒストリー」という本を書いた。
それにあるグルジア人哲学者の言葉を引用したことを覚えている。
「我々は未来が輝かしいことを知っています。
変わり続けるのは過去なのです」。
私はこういう観点から戦後70年をとらえる基本的な視座を得たいと考えている。
私は、まだよく分からないけれども、
歴史認識は、後世の人々に引き継がれるべきものなのでしょうか…?
「負荷ありし自己」という言葉がありますが、
「変わり続けるのは過去なのです」という言葉も、とても含蓄のある言葉だと思いました。