日記に書く順序が昨日と逆になってしまいましたが、
『大人になるためのリベラルアーツ』については、先月25日に、
リヘラルアーツ本来の言葉の意味などについて、
大変参考になる記事を寄稿されていました。
まず、石井副学長は、リベラルアーツの語源ついて次のように解説されています。
・リベラルアーツは「一般教養」と同義語ではなく、
もとは古代ギリシャにまでさかのぼる概念で、
人間が奴隷ではない自立した存在であるために必須とされる学問を
意味していたということ。
・その流れを受けて、中世ヨーロッパでは文法、修辞学、論理学、算術、幾何、
天文学、音 楽の7学科がアルテス・リベラリス(自由七科)とされた。
これがリベラルアーツの語源であること。
・つまり由来からして、この概念には
「人間を種々の限界から解き放って自由にする」という意味が含まれていること。
この私たちを不自由にしている「限界」には、どのようなものがあるかについては、
次のような解説がありました。
・第一に、知識の限界。
どんなに博学な人であっても、全知の人間などいないのだから、
程度の差こそあれ私たちは多かれ少なかれ無知であること。
・第二に、経験の限界。
世界は無限に広く、人間も驚くほど多様だが、
私たちが直接見聞きしたり接したりすることができるのは、
そのうちのごく一部にすぎないこと。
・第三に、思考の限界。
自分の頭で考えているつもりでも、
私たちの思考は必然的に過去の蓄積の上に築かれるので、
ともすると他者の言葉を無自覚になぞってしまうこと。
石井副学長の『大学という場が果たすべき主要な役割は、
学生たちをこれらの限界から可能な限り解放することにある。』
という文章に触れたときには、真理の言葉に触れたようで思わず身震いしました。
続いて、石井副学長は、記事のタイトルにもある「大人になる」について、
次のような示唆に富む解説をさせていました。
・これは分別をわきまえた、物わかりのいい人間になるという意味では全くない。
むしろ逆に、周囲の同調圧力に迎合して安易に妥協したりせず、
おかしいことをおかしいと思い、
わからないことはわからないと口にする素朴さや率直さを
失わずにいることこそが、大人になるための第一条件であると、私は考える。
・国会審議でもしばしば見られるように、
初めから自分を変える気のない者同士がいくら議論しても、
結局は不毛な平行線に終わってしまう。
確固たる主張 や信念を保持する一方で、他者との対話の中で絶えず自己を開き、
練り直し、柔軟に変容させていく「やわらかいアイデンティティー」を
併せ持たない限り、人は本当の意味で大人になることはできない。
う~む、まいりました……。
「やわらかいアイデンティティー」という言葉は、
とても味わいのある言葉だと思います。
そして、コラムの最後は、次のような文章でした。
『これは学生だけでなく、社会人にとっても同様である。
いや、むしろ年齢的にはすでに大人であるはずの社会人こそ、
凝り固まってしまった感性をいったん解きほぐし、
もう一度「大人になり直す」ことが必要なのではなかろうか。
それを可能にするのは、単なる幅広い知識や教養ではなく、
「自分という限界」から自らを解放する不断の営み、
すなわち言葉本来の意味におけるリベラルアーツなのである。』
スミマセン……。こうして整理してみると、
記事のほとんどを引用させていただいていることに気がつきました。
記事を読んで思ったのは、
「大人になり直す」ためには、年齢に関係なく、不断の努力が必要だということです。
本来の意味での「リベラルアーツ」への道には、終わりがないのですね……。