日本学術会議をめぐる報道に触れるにつれ、
何が物事の本質的な問題なのか、正直言って分からないところがありました。
そんななか、今月23日に産経新聞「正論」に掲載された、
『「正義」よりも「寛容」の価値示せ』というタイトルの論評が、理解の一助になりました。
『日本学術会議に絡む紛糾は、
当代日本における「政治の世界」と「知の世界」の懸隔を浮き彫りにしたようである。
日本学術会議から会員推薦された学者6人の任命を拒否した菅義偉内閣の対応は、
数々の学会、野党、メディアの批判を呼んでいる。
確かにこの度の政府判断については、筆者にも数人の学者の任命拒否には納得し難い思いが残る。
しかしながら、この件を「学問の自由」が侵害された事例として語るのは、率直に誤りである。
広く「自由」と呼ばれるものの条件について筆者が思い起こすのは、
米国の社会哲学者、エリック・ホッファーが著書「人間の条件について」に残した
「人々が自分を労働者、実業家、知識人、あるいは国家、教会、人種、
政党の一員であることを第一とするような社会秩序には、純粋な自由が欠如している」
ホッファーは、昼間は港湾労働に従事し、
夕刻以降には図書館に通うという生活を齢(よわい)65まで続けながら、独自の思想世界を築いた。
「沖仲仕の哲学者」として語られたホッファーが、
このような「自由」に絡む言葉を紡ぎ出したことこそ、「学問の自由」の本来の意義がある。
「学問の自由」は、大学に身を置く人々の「専有物」ではない。
ホッファーが指摘したように、「一人の人間であるという実感」が「自由」の本義であるならば、
特定の組織や立場に連なることに価値を置く姿勢それ自体が、
「自由」とは隔たったものであるとも評し得る。
故に、特定の組織や立場によって、「学問の自由」の擁護を声高に呼号する人々が、
実は「学問の自由」の土壌を無自覚に侵食する人々だということもある。
そうした逆説が意味するところを理解することは、現今では大事である。‥‥』
う~む、なるほど‥‥。雪斎先生らしい、高尚なご指摘です。
でも、よくよく考えてみると、あくまでこの問題の論点は、
日本学術会議法第7条第2項
「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。」の法解釈の問題、
つまりは、優れた研究又は業績があるとして、日本学術会議から推薦のあった会員候補者を
内閣総理大臣が任命拒否することは、任命権者としての裁量の範囲内で適法なのか、
それとも裁量権を逸脱して違法なのか、というその一点にあるのであって、
あまり論点を複雑化してしまうのはどうかな‥‥?と思っています。
ただ、内閣総理大臣が任命拒否することが、
任命権者としての裁量の範囲内で適法であったとしても、
その理由を明らかにすること、説明責任を果たすことが、次に求められるのだと思います。
たとえば、歴史学者・加藤陽子先生の「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(新潮文庫)は、
思想的に右・左は別として、私は良書だと思うし、そういう方を任命拒否したのはどうしてなのか‥‥?
私たち国民は、これが一番知りたいわけですから‥‥。