しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「真の実在」を知ろうとする作業

『千夜千冊エディション~観念と革命~西の世界観Ⅱ』(松岡正剛著:角川ソフィア文庫)を読了しました。

知的刺激に満ちて、実に面白く、勉強になる本でした。読み終わったら付箋だらけになっていました。


著者の執筆の意図は、次のような「前口上」で簡潔に述べられています。

(この本の購入の動機は、書店でこの「前口上」を立ち読みしたからです。)

『なぜ西の現代史はドイツの二度の敗戦と逆上に向かったのだろうか。

 カント、フィヒテヘーゲルの観念哲学は昆虫の巣にすぎなかったのか。

 ショーペンハウアーニーチェのシナリオは非-共同体の幻想だったのか。

 本書は、その後のマルクスとハイネ、レーニントロツキー

 フッサールハイデガーサルトルカミュを対比しつつ、

 二十世紀前半の西の「喘ぎ」と「変奏」と「唐突」を綾模様にしてみた。』


印象深い記述が盛りだくさんの本書の中で、最も印象に残ったのは、

ベルクソンの「時間と自由」の章にあった、「哲学」について語られた、次のような記述でした。

『‥‥ごくごく端的にいうのなら、哲学というものは「真の実在」を知ろうとする作業のことをいう。

 三枝博音』の千夜千冊のときにもふれたように、この「真の実在」は、

 仏教にいう「真如」でも、プラトンの「イデア」でも、プロティノスの「ヌース」でも、

 空海の「秘密曼荼羅十住心」でも、カントの「理性」でも、ハイデガーの「現存在」でも、かまわない。

 ようするに「真の実在」とか「知の真実」とでもいうような、

 そんなことがいったい世の中の何に役立つかというほどの、

 そういう他愛もない絶対知や普遍知に対しての探求に徹底することを、哲学という。

 (なかでも絶対知をもとめたのがヘーゲルである。)

 それゆえ、「真の実在」が何々だと言明されるということについては、

 哲学者によってはその言明の核心が何であってもかまわないのだが、

 しかしその「知の真実」とおぼしいものを知るには(言明するためのプロセスの説明では、)

 どんな方法をとるかということが決定されなければならない。‥‥』


う~む、なるほど‥‥。とても勉強になります。

著者の「知の宝庫」に圧倒されつつ、母校・早大のことを回想された箇所には、親近感を覚えた次第です。

次は、どの「千夜千冊エディション」を読もうかしら‥‥?

仕事を完全リタイヤ後も、読みたい本がある限り、なんとか余生を生きて行けそうです‥‥。