しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「戦後」を考えるうえでの原点

敗戦後論』(加藤典洋著:ちくま学芸文庫)を読了しました。

別冊NHK100分de名著『ナショナリズム』で、社会学者の大澤真幸さんが、

この本のことを取り上げられていたのが購読の動機でした。

著書の思想は、次のふたつの文章に最も端的に表れていると私は感じました。


『戦後の日本が抱えることになった問題の一つは、

 たとえば軍事力の行使を世界に率先して放棄することをうたった憲法

 軍事力を背景にした圧力のもとに押しつけられるという矛盾、

 また戦争に関し、開戦の詔勅に捺印の上これを発布した最高責任者である天皇が戦争裁判で免責され、

 下僚が代わりに絞首刑に処せられるという矛盾などに顔を見せている、一つの「ねじれ」を、

 敗戦占領とその後の推移により、日本の社会、政治、道義が、その根源に抱え込むことになったことである。

 この「ねじれ」は、その後、日本社会をいわば歴史を形成する主体をもてない分裂した人格にした。

 つまり、本来なら、この憲法の理念に賛同し、これを肯定する側が、これを真に自分のものとするため、

 この「ねじれ」を問題にし、その克服をめざさなければならないところ、この「ねじれ」は、逆に、

 それに目をつむる護憲派と、それを理由にこれをまたもや戦前型の「自主憲法」に取って代えることで

 その克服ならぬ解消をめざす改憲派との、

 出口のない(ジキル氏とハイド氏的な)人格分裂の動因となったのである。』


『わたしは自国の死者の追悼を「先に」置く他国の死者への謝罪と哀悼という死者の弔い方の創出がなければ、

 戦後の日本の人格分裂は克服されない、と述べたが、

 ここにあるのは、どうすれば死者との共同性を解体してわたし達の死者との関係を公共化できるかという

 戦後日本にとっての未知の課題なのである。

 戦後日本の人格分裂という事態は、分裂するそれぞれの半身が共同性としてある事態からきている。』


私の拙い読解力では、なかなか理解することが難しい著者の思想が、

内田樹(たつる)さんの執筆による、ちくま文庫版解説『卑しい街の騎士』と、

伊東祐史(ゆうじ)さんの執筆による、ちくま学芸文庫版解説『1995年という時代と「敗戦後論」』

を読むことによって、ようやくおぼろげながらもその輪郭が理解できるようになりました。

お二人の素晴しい解説に随分と助けられました。

そのなかでも、内田樹さん、伊藤祐史さんの、次のそれぞれ文章は、強く印象に残ることになりました。


『「敗戦国民」という私たちの立場は、加藤の卓抜な比喩を借りれば、

 火事場で自分の上に身を覆い被さって焼け死んだ人の灰に守られて生き延びた人が、

 生きて最初に命ぜられた仕事が「自分を守って死んだその人を否定することである」という

 理不尽なあり方をしている。

 生き残った私は「私のために死んだこの死者を否定できない」と言うべきなのか、

 それとも「私のために死んだにせよ、死者の悪業は否定されなければならない」と言うべきなのか。

 ここに万人が納得できるような「正解」はない。』


『そう考えると、「敗戦後論」という作品は、不遇だったからこそ加藤の「文学」がもっとも鋭く磨かれ、

 また、世の中に戦争体験者の重みと、保守・革新ともに堅牢で硬直した考え方があったからこそ、

 日本社会の硬い岩盤に深く突き刺さるような論となったのだろう。

 それはまさに、1995年という時代が生んだ僥倖であった。

 そしていまでも、戦後50年に書かれた「敗戦後論」は、

 私たちが「戦後」を考えるうえでの原点なのである。』


もっと早くこの本に出合えたらよかったと思います。

ナショナリズム」というもの考える上でも、一読をお薦めしたい一冊です。