先日購入した『永久保存版 「知の巨人」 立花隆のすべて』(文春ムック)を読んでいて、
『立花式読書論、読書術、書斎術 ぼくはこんな本を読んできた』(文藝春秋)と
『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(文藝春秋)の2冊が、
書棚に眠っていることを思い出し、20数年ぶりに再読することにしました。
書かれている内容は、今読んでも色褪せておらず、心に響くものがありました。
それぞれ、特に印象に残った1か所を、次のとおりこの日記に書き残しておきます。
『人間の精神、人格というのは、ある意味で、
その人の過去の記憶の総体によって作られているともいえるわけです。
「これが私だ」というものは、過去の記憶の総体、経験の総体であるわけです。
そうすると、そういうオートマン的(ある入力があったときに特定の出力を自動的に行う構造)な自分
というものに満足している人の記憶とか意識の内面というのは、
空洞化した中を日々の行為がただ流れすぎているだけで、
その人の本質として残っていくものは、よくよく思い起こすと何もないという人間になってしまう。
そういう意味で、人間の知的欲求というのは、その人間の本質部分をつくっていく、
もっとも根本的なドライブ要因であるということがいえると思います。』
『書店や図書館は、人類文化の全体を大宇宙とすれば、
その全体像をできるだけ写しとった中宇宙として、形成されているのである。
人は自分の小宇宙を作ることを、書店や図書館に行って、何冊かの本の読者となり、
その本の数だけの小宇宙の住人となる経験を積むことからはじめるわけである。
どれだけ多くの本を読み、どれだけ多くの小宇宙の住人となり、
自分をどれだけ多くの多世界存在者にしたかによって、その人の小宇宙の豊かさがきまってくる。』
はぃ‥、分かりました。
これからの余生も、「知的好奇心」を失わずに、自分なりの「小宇宙」をつくっていきたいと思います。