一昨日の朝日新聞デジタル版「日曜に想う」では、大野博人編集委員が、
『「伝統」が発明される時代』というタイトルの記事で、次のようなことを述べられていました。
『今再び、伝統を言いつのる時代が来ているようだ。
日本では、憲法に日本の伝統的価値観を盛り込もうという主張が目立つ。
2006年に改正された教育基本法は伝統を「継承」したり「尊重」したりする教育の推進をうたっている。
ほかの国でも、自国の誇りを取り戻せとばかりに伝統を強調する言説が広がる。
おりしもグローバル化や少子高齢化で社会は急激な変化にさらされている。
不安が消えない人々に向けて政治家や言論人がせっせと伝統を発明しているように見える。
「夫婦別姓は伝統を壊す」「家族で助け合うのが伝統」‥‥。
「伝統って何でも入れられる箱みたいなもの」と、
トンプソン教授(注:早稲田大学スポーツ科学学術院教授)は注意を促す。
「伝統といえば、人は守らなければと思ってしまいがちです」
伝統というだけで、なにかを説明したことにはならない。
伝統といわれただけで、恐れ入るわけにはいかない。』
う~む、なるほど‥‥。
私もこれまで「伝統の早慶戦」とか「伝統の早明戦」など、「伝統」という言葉を、
その意味をあまり考えることなく使ってきたように思います。
ちなみに、記事では、英国の歴史家、エリック・ホブズボームらが
1983年に出した研究書「創られた伝統」で打ち出した、次のような考え方が紹介されていました。
『伝統とされるものごとは、古いと言われるし、そう見える。
しかし、その起源がかなり最近であることはしばしばで、ときには発明されることもある‥‥。』
はぃ、確かに「夫婦別姓は伝統を壊す」や「家族で助け合うのが伝統」の場合の「伝統」は、
ちょっと危なかしいところはあるとは思うけれど、伝統という言葉にあまり過敏になるのはどうなのでしょう?
「古いもの」の基準が、人によって曖昧さがあることは否めないものの、
それが「今でも続いている」ことに敬意を払うのは、それはそれで大切な価値観のように私は思います。