しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

腰痛再発す‥‥

今月5日に、義理の叔父が享年85歳で亡くなりました。

今日はその叔父の葬儀に参列するため、西予市野村町に行ってきました。

その叔父には、妻と結婚してから、いち早く「しんちゃん」と親しく呼んでもらい、

これまで何かにつけて大変お世話になりました。


今日、叔父の葬儀に参列して改めて思ったのは、

ここ数年、身近な親族の葬儀に参列することがめっきり多くなって、

ひょっとしたら、あの世に逝った身近な人の方が、現世で生きている身近な人よりも、

人数的には多くなっているような気がしたことです。(正式に数えたわけではないけれど‥)

こうして、人間というのは、身近の人の死を幾度も経験することによって、

自らの死についての心構えみたいなものを、自然と養っていくのかもしれません‥‥。


ところで、今日、葬儀に出かける直前に、自宅のソファーから立ち上がろうとしたところ、

腰から背中にかけピリっと激痛が走りました。どうやら、久々のギックリ腰のようです。

葬儀からの帰宅後、私の痛みを見かねた妻が、「星乃岡温泉・千湯館」に誘ってくれました。

電気風呂や泡風呂、そして薬草湯にゆったりと入って、少し楽になったような気がします。

ということで、今日の日記はここまでが限界です。

明日、寝床から起き上がれることを祈るばかりです。あぁ~、明日がお休みで良かった‥‥。

途中で棄権した本

昨年末に町立図書館で借りていた『応仁の乱~戦国時代を生んだ大乱』

(呉座勇一著:中公新書)という本‥。まだ半分ぐらいしか読んでいなかったけれど、

返却期限が迫っていたので、今日、やむなく町立図書館に返却してきました。


それにしても、この本は私には難しすぎました。

通勤電車の往復時間や年末年始の休暇を利用して、2週間で読み切るつもりだったのに、

あまりにも登場人物が多く、複雑すぎて、その確認作業のため、

読んでは元に戻り、読んでは元に戻りの繰り返しになりました。


でも、どうしてこのような「お堅い本」がベストセラーになるのかな‥‥?

良書であることには間違いはないと思うのだけれど‥‥。

今回の件で自覚したのは、難しくて読了に時間がかかりそうな本は、

身銭を切って購入し、いつでも読めるように手許に置いておくことです。


ところが、私の場合、そう思って購入した本が、何冊も積読状態のまま眠ってしまっています。

本と末永くお付き合いするのは、つくづく難しいことなのだと実感しました。

まるで私と、我が家の奥様との関係のようです‥‥。(苦笑)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

「構造」か、それとも「遅れ」か

昨日4日から日経新聞「経済教室」では、

「時代の節目に考える」という論考の連載が始まりましたが、

その第一回目は、岩井克人国際基督教大学特別招聘教授が

『日本資本主義 再興の時~米国型に代わる「普遍」作れ』と題する論考を寄稿されていました。

「自由放任主義」を中軸とし、「株主主権論」を絶対視する米国型資本主義が、

「グローバル標準」ではなくなったとするこの論考の結論は、次のような記述でした。


『自由放任でも株主主権でもない資本主義の「形」。

 もちろんそれは日本そして欧州大陸諸国の資本主義の特質であり、その意味では新しさはない。

 だがいま、それを唯一の普遍からの逸脱としてではなく、

 資本主義がとりうる様々な「形」の一つ、

 いや多様な普遍の中の「一つの普遍」としてとらえ直す機会が来た。

 それは「日本資本主義」を、日本に固有の「構造」を持つ資本主義としてでも、

 発展が「遅れた」資本主義としてでもなく、

 日本社会が自主的に選びとる「一つの普遍」としての資本主義とすることである。

 その「普遍」の中身をどう作り上げるかは、私たちの意思と決定にかかっている。

 それが、日本の西欧化元年の明治維新から150年にあたる今年の課題である。』


私がとても勉強になったのは、この記述のなかにでてくる「構造」と「遅れ」についての

「日本資本主義論争」に係る、岩井教授の次のような解説でした。


『昔「日本資本主義論争」と呼ばれた論争があった。

 1930年代から第2次世界大戦を挟んで60年代まで、

 マルクス主義者の間で繰り広げられた血みどろの政治闘争である。

 それは戦前日本が抱えていた貧困や不平等などの原因を巡る論争から出発している。

 一方の陣営は講座派と呼ばれ、日本の社会を、西欧資本主義がたどった発展経路から外れ、

 天皇制という独自の封建制の下で固有の「構造」を持ってしまった社会と規定した。

 他方の陣営は労農派と呼ばれ、日本社会を、資本主義の通常の発展経路をたどってはいるが、

 その発展が西欧に比べて大きく「遅れ」ている社会であると主張した。

 学問上の対立にしかみえないこの論争が血みどろの政治闘争になったのは、

 それが社会主義に向けた革命戦略の対立を導いたからだ。

 日本社会が封建的ならば、社会主義革命の前に市民革命を行う必要がある。

 既に資本主義的であれば、次の革命は社会主義革命だけでよいことになる。

 社会主義への道を巡りマルクス主義者が繰り広げたこの論争は

 いまでは喜劇にしかみえないだろう。だが私は喜劇として笑い飛ばせない。

 日本社会の特質をその固有の「構造」に見いだすべきか、発展の「遅れ」に見いだすべきか、

 という論争はマルクス主義を超え、その後も様々な形で繰り返されてきたからだ。』


う~む、なるほど‥‥。そういうことですか‥‥。

だから、岩井教授が指摘されているように、バブル崩壊後の日本経済の長期停滞の理由についても、

独自の文化により固定されたその「構造」に見いだす議論と、

米国的な市場自由化の「遅れ」に見いだす議論が対立したのですね‥‥。


さらに岩井教授は、講座派と労農派の対立と同様の対立が何度も繰り返されてきたのは、

その対立の背後に共通の思考が存在しているからで、

その共通の思考とは、かつてであれば西欧社会、

近年ならば米国社会を唯一の「普遍」とみなす思考であり、

それは、日本を含めた非西欧社会、近年ならば欧州大陸諸国すら含めた米国以外の社会のあり方を、

この唯一の普遍からの「逸脱」とみなす思考だと述べられていました。


新年早々、格調の高い論考を読むことができました。

でも、「日本資本主義」を、「一つの普遍」としての資本主義とすることとして、

その「普遍」の中身を作り上げるこというのは、

国家としての「座標軸」、あるいは「ものさし」のようなものを

作ることだと理解してよいのでしょうか‥? だとしたら、とっても重たい課題だと思います。

戌(いぬ)は笑う

今日4日は、仕事始めの日でした。

私はといえば、今朝はなんとかいつもどおり午前5時に起床することができましたが、

職場では、心や身体が仕事モードに戻らないうちに、困難な案件が飛び込んできて、

慌ただしい一日を過ごすことになりました。

この一年を暗示しているようで、泣きたい気持ちになりました。(トホホ‥‥)


こんな私とは真逆に、日経新聞電子版では、次のような記事が配信されていました。

『はやくも戌(いぬ)が笑った。2018年最初の取引となった4日の東京市場

 昨年末比741円高日経平均株価は2万3506円となった。

 1989年12月末につけた最高値(3万8915円)から

 バブル崩壊後の安値までの下げ幅の半分を回復したことになる。

 気の早い兜町では「半値戻しは全値戻し」という相場格言が語られ始めた。

 全値を戻すには時間がかかるだろうが、「根拠ある株高」との見方が市場関係者に広がっているのは確かだ。

 日経平均はバブル絶頂期の12月29日に3万8915円をつけた後、

 米リーマン危機が直撃した2009年3月10日には7054円まで下落した。

 この間の下落率は8割を超え、日本人に「日本株はもうからないもの」

 という意識を植え付けたともいわれる。この下げ幅の「半値戻し」の節目が2万2985円になる。』


う~む、なるほど‥‥。相場の格言に「戌は笑う」というのがあるそうですが、

早くも「ブル・ドッグ」(強気の戌年相場) になったのですね。株主の皆様には、誠にご同慶に堪えません。

私も、仕事始め初日から落ち込むことはやめて、

相場の格言にあやかって「戌は笑う」一年となるよう、前向きな気持ちに入れ替えることにします。

「80歳の若大将」のことば

昨晩、この日記を書き終わってから、妻を誘って、

アガサ・クリスティー原作の映画、『オリエント急行殺人事件』を観に行ってきました。

午後8時40分という遅い上映開始時間だったせいか、

私たち夫婦を入れても、観客は10人ほどしかいませんでした。

ただ、映画そのものはスリリングでテンポが良く、とても面白かったです。
http://www.foxmovies-jp.com/orient-movie/


さて、今日3日の愛媛新聞「テレビ・芸能」欄に、私の憧れの大スター・加山雄三さんのことが、

『音楽は生涯の親友~「80歳の若大将」加山雄三』というタイトルで書かれていました。

記事の冒頭は次のような内容でした。

雄大な海や大きな愛を歌う“80歳の若大将”が挑戦を続けている。俳優で歌手の加山雄三

 「生涯の親友」と語る音楽を通してファンを広げ、「感謝の心を持ち、今を強く生きて行こう」

 と元気いっぱいだ。そのエネルギーの源は何だろう。』


そして、記事のなかで、特に印象に残ったのは、次のような記述でした。

『前向きな理由を聞くと、「昔の人の言葉をよく考えて味わうのが大好き」と

 語り始めて止まらなくなった。「一番尊いことは人のために奉仕し、決して恩に着せないこと」

 「享楽からは失うことが多く、苦しみからは得ることが多い」

 「出会いが人生を変えることがある。良き出会いを」‥‥。

 テレビを見ていても、心に触れた言葉はすぐ書き取る。

 そのメモがたまるとノートに書き写して暗記する。「自分のアンテナを広げていれば、

 心に引っかかる何かがある。全てが学びになる」 ~ (中略) ~

 かつて事業の失敗で苦難の経験も。「人が本当に困った時、天は愛の手を差し伸べてくれる

 気がしてならない。それをつかむのも、つかみ損ねるのも自分だ。

 チャンスを逃さないように常に心していなければと思います」』


はぃ‥、分かりました。私も“80歳の若大将”を見習って、

「全てが学びになる」ように、一日一日を大切に頑張りたいと思います。

さぁ~、年末年始の連休も今日でおしまいです。

小心者の私は、明日いつもの時間に起きれるか、今からとても心配です。(苦笑)