しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

変装している心を探す

‥‥‥‥。(絶句) サッカーW杯の日本代表の敗戦に茫然自失の状態です。

それはまるで「ドーハの悲劇」を思い出すような、「ロストフドナヌーの悲劇」でした。

今回の敗戦を糧にして、さらに逞しくなった日本代表の勇姿を、

生きていれば66歳になった4年後に、ぜひ見てみたいと思います。


さて、昨日2日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、

作詞家・阿久悠さんの『変装してるんですよ、みんな。』という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの次のような解説がありました。


『そこはかとない淋(さび)しさ、やるせなさ。

 何かが欠けているというそんな「飢餓感」が沁(し)みだしてきても、

 人は気を振り絞って、それに蓋(ふた)をする。

 でも、ときには「少し化粧を落として」みたらと、作詞家は言う。

 歌とは「時代のなかで変装している心を探す作業」。

 「死角に入っていた心のうめき、寒さ」に「ボールをぶつける」ために歌を書いてきたと。

 「書き下ろし歌謡曲」から。』


う~む、なるほど‥‥。

ということは、普段の私も、精一杯意地を張った「変装している私」なのかな‥‥?

ところで、阿久悠さんの作詞された数多い曲の中には、私の大好きな曲がたくさんあります。

たとえば、次のような懐かしい曲の数々‥‥。

あの鐘を鳴らすのはあなた(和田アキ子)」、「乙女のワルツ(伊藤咲子)」、

五番街のマリーへ(ペドロ&カプリシャス)」、「さらば涙と言おう(森田健作)」、「時代おくれ(河島英五)」、

「ブルースカイブルー(西城秀樹)」、「街の灯り(堺正章)」、「みずいろの恋(あべ静江)」‥‥‥。


はぃ、確かに当時の私は、こうした曲を聴くたびに、心が素直になれたように思います。

それはさておき、今の茫然自失の私を、慰めてくれる曲はないのかしら‥‥?

半生半作の人生?

今日2日から6日までは、七十二候の「半夏生ず(はんげしょうず)」です。

「こよみのページ」のHPには「半夏生(はんげしょう)」の解説があって、

次のように書かれていました。

 ・雑節 梅雨の末期、天地に毒気が満ち、半夏(ハンゲ)という毒草が生ずると考えられた。

  なお、「ハンゲ」はサトイモカラスビシャクとされる。

 ・暦の上での半夏生は、梅雨の後期に入る一つの目安と考えられ、

  田植えの終了を示す日としての役割がありました。

  昔はどんなに遅くとも半夏生の日までには田植えを終え、

  それ以降には田植えは行わなかったといいます。

  天候が不順で気温が上がらず、田植えの時期がずれ込んだとしても、

  何とかこの日までに田植えが終えられるならば、

  「半夏半作」といって例年の半分の収穫は上げられるといったそうです。

  逆の言い方をすれば、これ以降に田植えをするようでは

  例年の半分の収穫もおぼつかないという意味でしょう。


う~む‥‥。「半夏」という毒草のことも「半夏半作」という言葉も、生まれて初めて知りました。

勉強不足のせいか、この世の中は私の知らないことだらけです。

何事にも中途半端な私の人生にピッタリな、「半生半作」という言葉はないのかしら‥‥?


さて、いよいよ明日未明、サッカーW杯の「日本」対「ベルギー」の試合が予定されています。

明日は、普段の午前5時起床を少し早めて、日本代表を精一杯応援したいと思っています。

ですから、今日はもう寝ます‥‥。おやすみなさい‥‥。

今日から7月。まだ「半分」?

今日から7月です。

ついこの前に年が明けたと思っていたら、もう一年の「半分」が過ぎ去っていきました。


「半分」といえば、今日の愛媛新聞「ふるさと伝言」に、

松山市生まれの臼井興胤・コメダ社長が、

『もう「半分」?まだ「半分」?』というタイトルのエッセイを寄稿されていて、

そこでは次のようなことを述べられていました。

『まだ半分もある人も随分「半分」を割り込んだと思っている人も、

 「ぼんやり」生きるかわりに明確な目標を持とう。

 明確な目標を強い意志で追い求めれば、今年だってまだ「半分」もある。』


はぃ、分かりました‥。「ぼんやり」志向の私には、臼井社長の、耳が痛いお言葉です。

さて、先月28日の木曜日、朝起きてみると、ホテイアオイに花が咲きかけていて、

仕事から帰宅後には、きれいな紫色の花を咲かせていました。

ホテイアオイの花は、残念ながら長持ちはしません。

それだけに、紫の色にある種の「切なさ」を感じます。

「紫の花」といえば、お隣の家の庭に咲いているアジサイも、ご覧のように上品な紫色です。

一年は慌ただしく過ぎ去っていくけれど、身近な四季の自然を気に留める

気持ちの余裕だけは失わないようにしたいと思っています。

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「不条理」と向き合う

NHKテレビテキストの100分de名著『ペスト』(アルベール・カミュ)を読了しました。

番組の講師は中条省平学習院大学教授で、

番組HPでは、カミュとペストについて次のような解説がありました。


『第二次大戦の只中、「異邦人」「シーシュポスの神話」等の作品で「不条理」の哲学を打ち出し

 戦後の思想界に巨大な影響を与え続けた作家アルベール・カミュ (1913- 1960)。

 彼が自らのレジスタンス活動で培った思想を通して、戦争や全体主義、大災害といった極限状況に、

 人間はどう向き合い、どう生きていくべきかを問うた代表作が「ペスト」である。

 ~ (略) ~「ペスト」はナチスドイツ占領下のヨーロッパで実際に起こった出来事の隠喩だといわれる。

 過酷な占領下で、横行した裏切りや密告、同胞同士の相互不信、刹那的な享楽への現実逃避、

 愛するものたちとの離別等々。カミュ自身がレジスタンス活動の中で目撃した赤裸々な人間模様が

 この作品には反映している。それだけではない。「罪なき人々の死」「災害や病気などの避けがたい苦難」

 「この世にはびこる悪」‥‥私たちの人生は「不条理」としかいいようのない出来事に満ち溢れている。

 「ペスト」は、私たちの人生そのものの隠喩でもあるのだ。

 番組では、カミュが描き出そうした、人間にとって不可避な「不条理」に光を当て、

 「ペスト」という作品を通して、人間は「不条理」とどう向き合い、

 生きていけばよいのかを読み解いていく。』


また、テキストでの中条教授の解説で、特に印象に残ったのは次のような記述でした。

カミュは急進的な「革命」ではなく、あくまでも人間的な尺度をもった「反抗」にこだわりました。

 革命を強風に、反抗を樹液に喩えて、人間は後者によって粘り強く不条理に立ちむかうべきだと

 説いたのです。たとえその反抗が基本的には敗北に終わるものだとしても、

 ギリシャ神話のシーシュポスのように、山頂まで運びあげては転がり落ちる岩を

 何度でもまた運びあげながら、その運命を神のものから人間自身のものに変え、

 そこに幸福を見出すことさえ可能だというのです。

 それは不条理との戦いにおいて、敗北や挫折や失敗が人間の条件であるとしても、

 リウーやタルーやグランや、変化したあとのランベールのように、

 「自分にできることをする」ことのなかにこそ、人間の希望があるということではないでしょうか。』


う~む、なるほど‥‥。

「自分にできることをする」ですか‥。そうですよね、それなら私にもできそうな‥‥。

生きていくことに希望と勇気を持たせてくれるメツセージだと思います。

そして、テレビ番組を見たなかでは、最終回に登場した「認識と記憶」という言葉と、

司会の伊集院光さんも感動されていた、カミュの次の言葉が深く胸に刻まれた次第です。

『私は正義を信じる。しかし正義より前に私の母を守るであろう』


私はこれまで一度もカミュの本を読んだことがありませんが、

今回、このテキストを読んで、ぜひ原典を読んでみたいと思いました。

「スカッと」しないのはなぜ?

今日29日の朝日新聞デジタル版「池上彰の新聞ななめ読み」では、

サッカーW杯開会前には、とかく酷評されていた日本代表の活躍ぶりについて、

池上さんが、セネガルと引き分けた興奮が冷めた頃の今月26日付朝刊の記事を比較されていて、

そこでは、日経新聞一面コラム「春秋」も紹介されていました。

もう一度そのコラム思い出すために、全文を次のとおり引用させていただきます。


『いじわるな上司、クレームを言い立てる客、隣人を見下すママ友‥‥。

 そういう理不尽を撃退した出来事を紹介し、スカッとした度合いを測るテレビ番組がある。

 それまで人を小バカにしていた相手が、

 こちらの実力を知ったときの狼狽(ろうばい)ぶりなど「スカッと度」最高だ。

 サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会で1次リーグを戦っている日本代表は、

 目下この高揚感にしびれているだろう。

 いろいろ難癖をつけられていたのに本番ではコロンビアを打ち破り、

 セネガルには2度にわたり追いついてドローに持ち込んだ。

 半端ないって! お見それしました! の声が列島に満ちている。

 もっともわれら、忸怩(じくじ)たるものを感じないわけにはいかない。

 開幕2カ月前の監督交代、ベテラン重視の代表選考、親善試合での不振などに世の批判は噴出し、

 「忖度(そんたく)ジャパン」なる揶揄(やゆ)もあった。

 それが一転、西野朗監督の「神采配」をたたえ、本田圭佑選手を「大明神」とあがめる。

 手のひら返しの見本というべきか。

 だからその逆の現象も起きうるのがニッポン社会の怖さである。

 バッシングと賛嘆はどうやら紙一重なのだ‥‥などという理屈はさておいて、

 毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)に取り巻かれてきた日本代表はいたって冷静であるに違いない。

 ポーランド戦はあさっての深夜。

 究極のスカッとを見せてくれると願いつつ、まずは寝だめをしておこう。』


今朝起きて、ポーランド戦の日本代表の戦いをニュースで見た私‥‥。

決勝トーナメント進出は素直にうれしかったものの、

「究極のスカッと」には程遠いものがありました。(後味の悪さだけが残りました。)

というのも、試合終了直前に大ブーイングのなか、ボール回しに終始した日本代表の戦略は、

勝負の世界とはいえ、果たして正しかったのかどうか、釈然としなかったからです。

(それはまるで、高校野球の「松井秀喜5打席連続敬遠」を思い出すようなシーンでしたし、

個人的には、リスクを負ってでも、果敢に攻め続けてほしかったです。)


小・中学生の道徳教育の教材になりそうな事例だと思います‥‥。