しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「平凡な日常」というフィクション

今日は町立図書館に行って、4月28日(日)から5月4日(土)までの

朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。

この一週間も印象に残った「ことば」が盛りだくさんでした。


まず、4月28日(日)は、松村圭一郎さんの

「コンセンサスによって意思決定する社会では、採決は最悪の選択になる。」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『コミュニティにおける多数決での合意形成は、負けた側の「屈辱や憎しみ」を増幅し、

 当のコミュニティを破壊しかねない。だから、そこでは反対意見の人も最終的に合流しうるような

 「妥協と意見のすりあわせ」が重要になると、文化人類学者は言う。

 まっ先に求められるのは「多数決よりも高度な政治的技量」と

 「対立を煽らない思慮深さ」だと。「人類学者のレンズ」から。』


次に、4月29日(月)は、前日と同じく松村圭一郎さんの

「「平凡な日常」とは、フィクションでしかないのだ。」という「ことば」で、

これまた同じく鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『コロナ禍のような非常時には、ケアや運送、ごみ処理といった「エッセンシャルワーク」が、

 労働条件が劣悪なまま社会全体を支えてきたことが露(あら)わになると、文化人類学者は言う。

 社会的支援が不十分な人たちがまっ先に苦境に立たされる。

 危機の中で顕在化する構造のほうが「ふつう」で、

 「何事もない日常」こそ例外的であることが判明すると。「人類学者のレンズ」から。』


う~む‥‥。(沈思黙考)

「妥協と意見のすりあわせが重要」というのは理解できるけれど、

「多数決よりも高度な政治的技量」って、どんな技量なんだろう? 私には分かりません。

また、「何事もない日常こそ例外的である」という指摘にはドキリとしました。

私たちはフィクションの世界に生きているのかしら?

私の知らない人物とその思考・思想を知ることができるのが、このコラムの魅力だと、

この両日のコラムを読んで改めて感じた次第です。これからも町立図書館通いを続けます‥‥。