しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

力作を称える

新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからず、不安な日々が続いています。

ただ、緊急事態宣言が出されていた頃と明らかに違うのは、

通勤電車に乗っても、買い物に出かけても、ほぼすべての人がマスクを着用し、

電車は冷房運転でも一部の窓を開放し、お店は飛沫防止シートや消毒液を設置したりして、

可能な限りの感染防止対策が取られていることです。

また、マスクや除菌シートは、購入個数に制限はあるものの、商品棚に適切な価格で置かれています。

あとは、ワクチンと治療薬が、できるだけ早く国民に提供されることを祈るばかりです。


さて、昨日は、父がとてもご機嫌でした。

というのも、デイサービスセンターで生け花教室があり、

若い女性の先生に指導してもらって、「生け花を活ける」という体験をしたとのことでした。

下の写真がその父の作品です。


当初はあれほど行くのを嫌がっていたデイサービスセンターも、

最近は、囲碁を打ったり、書道をしたりして、充実した時間を過ごしているようです。

私は、父の立場になったら、娘に迷惑をかけないように、

早めにこの家を出て、施設に入所したいと思っています。

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「抵抗勢力」との闘い

今日から二十四節気の「大暑」です。

「こよみのページ」には、「最も暑い頃という意味であるが実際はもう少し後か。

夏の土用の時期。学校は夏休みに入り、空には雲の峰が高々とそびえるようになる。」

との解説がありますが、今日も松前小学校の皆さんが登校する姿がありました。

コロナ禍による休校をカバーするため、夏休みを返上した授業が続いているようです。


ちなみに、今日の愛媛新聞一面コラム「地軸」には、次のようなことが書かれていました。

『‥‥コロナ感染防止のため、花火大会や各種イベント、プール営業の中止など

 子どもたちの夏の楽しみも寂しくなっている。

 旅行やレジャーもコロナ対策が求められ、祖父母の家などに行く場合も配慮が必要。

 いつもと違う夏である。時間を持て余す、なんてことはぜいたくな望みになるかもしれない。

 夏休みは短く、多くの制約はあるが、思い思いの夏を。

 「一生の楽しきころのソーダ水」(富安風生)。大人になって、いつか思い出す日がくるだろう。』


はぃ‥、私もこのコラムと同じような気持ちで、頑張る子どもたちに、エールを送りたいと思います。

さて、話は変わりますが、今日の産経新聞「正論」に、大田弘子政策研究大学院大学特別教授が、

「利用者本位でデジタル化進めよ」というタイトルの、次のような論評を寄稿されていました。


・政府がIT戦略を長らく強調しながら、デジタル化がかくも遅れた原因はどこにあるか。

 最大の問題は、政府における利用者志向の弱さ、

 利用者利便を最優先する態度の欠如にあると私は思う。

 だから、行政のデジタル化にあたっては各省縦割りの事情と思惑が優先し、

 利用者利便は二の次になる。

 司令塔機能をつくろうとも、一体的な行政デジタル化はいつまでも実現しない。


・規制をめぐっては、既存の事業者の反対が強い。

 デジタル化は従来の仕組みの大転換だから、既存事業者から反対が出るのは当然のことである。

 問題は、利用者利便より、反対する声のほうが強い力をもってしまうことだ。

 規制官庁は、デジタル化によって生じる問題点、つまり「できない理屈」をとうとうと展開する。

 そして、反対を抑えられる程度のデジタル化しか実現しない。


・わが国では、経済政策をめぐって、とかく供給者重視になりがちである。

 規制官庁は、事業者との意思疎通は密に行うが、利用者の立場は軽視されやすい。

 供給者側の事情を優先する発想が変わらない限り、行政のデジタル化も、

 規制分野のデジタル化も進まず、そのツケは利用者たる国民が負うことになるだろう。

 また、現在のデジタル革新を牽引(けんいん)するのは利用者利便だから、

 このままでは、政府が関与する分野でのイノベーションは起こりにくい。

 猛烈なスピードで進むデジタル化に制度の変革が追い付かず、

 わが国は人材や技術力など持てる資源を存分に生かすことはできないだろう。


・デジタル化に総論として反対する人はいない。

 しかし、いざ進めるとなると、反対の声が四方八方から押し寄せ、高い壁に阻まれる。

 その壁を突き崩す覚悟を持てるどうかが、

 決して大げさではなく「日本の未来」を左右するのだと思う。


このような論旨は、

かつての「郵政民営化」や「規制改革」に係る議論でも展開されたと思います。

「利用者本位のデジタル化」を実現するためには、「抵抗勢力」との闘いが必要なのですね‥‥。

それでも組織は失敗する

一般社団法人日本能率協会のHP、「経営の羅針盤」に掲載された

『「失敗の本質」の本質』というタイトルのコラムが大変勉強になりました。

コロナ禍が広がる中で、あらためて注目が集まった

名著「失敗の本質~日本軍の組織論的研究」(中公文庫)を読み返し、

「そのエッセンスを考えてみようとする試み」とのことでした。


『‥‥以上、「失敗の本質」のエッセンスを確認してきました。

 これほど具体的、詳細に失敗の原因が提起され、

 これまでに、多くの経営者やリーダーに読まれてきたにも関わらず、

 なぜ組織は失敗に陥ってしまうのでしょうか。

 むしろ、それが組織の必然であり、運命であるということなのかもしれません。

 したがって、「失敗の本質」からの最大の学びは、

 「それでも組織は失敗する」ことを大前提として認識するべきということではないかと考えます。

 どんなに成功していても、むしろ、成功していると思われるときこそ、

 「自組織は失敗に陥りかけていないか」と自問自答することです。

 さらに、自問自答では「ご都合主義」に陥る危険性がありますから、

 素朴な質問を投げかける異質な/新鮮な視点をもった人を組織に組み入れる、

 あるいは、会議の際に敢えて異論・反論を述べる役割

 (いわゆる「デビルズ・アドボケイト」)を設定するといった仕掛け、仕組みをつくることです。

 こう考えると、組織マネジメントやコーポレート・ガバナンスにおいて

 多様性を取り入れることは、極めて重要なことと言えるのではないでしょうか。』


う~む、なるほど‥‥。

「会議の際に敢えて異論・反論を述べる役割」を「デビルズ・アドボケイト」というのですね。

初めて聞く用語なのでネットで調べてみると、「悪魔の代弁者」との解説がありました。


ん‥‥、「悪魔の代弁者」なら聞いたことがあるぞ‥、と思い起こしてみると、

はぃ、かつて読んだ『武器になる哲学』(山口周著)に、

ジョン・スチューアート・ミルの言葉として、しっかりとその用語の解説が書かれていました。


『昨今、本来であれば頭脳優秀な人材が集まっているはずの大企業が

 噴飯ものの不祥事を続発させていますが、このような局面だからこそ、

 私たちは重大な意思決定局面における「悪魔の代弁者」の活用について、

 もっと積極的になるべきだと思うのです。』


はぃ‥、「デビルズ・アドボケイト」が組織に必要なことは理解できたのですが、

私の経験からすると、組織の良好な雰囲気を一瞬にして壊してしまう、

人物・性格まで「悪魔の代弁者」がいることには、十分に気を付けたほうがいいと思います。

「危機の本質」はそこに

心の準備も身体の準備もできていない状態で、いきなり猛暑がやってきました。

今日はマジ暑かったです‥‥。


さて、昨日の愛媛新聞「新著の余禄」で、

井手英策・慶大教授の新著「欲望の経済を終わらせる」が、次のような内容で紹介されていました。


『気鋭の財政学者、井手英策さんは新著で「本当の経済とは何か」を問うた。

 収益や経済成長の追及に偏り、他者を顧みる余裕さえ失った日本社会。

 「金もうけという欲望の領域だけで経済を語る時代は終わらせないといけない」。そう訴える。

 論考の出発点は新自由主義を巡る疑問。

 自由の必要性を語りながら、格差を広げ、人々に自己責任の呪縛をかけるような主義主張が、

 なぜ日本で受け入れられたのか。

 「自由の誤った用法で、人を不自由な状況に追い込むものに、どうあらがえるかを考えた」

 国民の支持を得つつも、暮らしを疲弊させたのは新自由主義だけでない。

 小泉政権にも安倍政権にも一貫していたのは「経済至上主義」だった。

 「日本企業が国際競争に負ければ、あなたも生きていけませんよ」と脅され、

 国民は民営化も規制緩和も法人減税も受け入れてきた」

 逆らえない背景は何か。

 「日本が“勤労国家”だから。国民は勤労して倹約して貯蓄して、自己責任で将来不安に応じてきた」。

 しかも、運悪く失業した人までもが、勤労意識の低い失格者の烙印を押されてしまうのが

 日本の怖さだという。

 セーフテイーネットも生活保障も極めて脆弱な中、全世帯の約半数は年収400万円未満。

 多くの人が生活防衛に必死で、困窮者に思いをはせる余裕もない。

 そこに「危機の本質がある」と説く。‥‥』


う~む‥‥。(沈黙)

どちらかというと、「成長至上主義者」であることを自覚する私も、

上述のような論調はよく理解できるし、反論する余地もほとんどありません。

経済成長は必要だと思うけれど、

かといって、他者を顧みる余裕さえ失った社会はとても危険だと思うし‥‥。

いったいどうすれば、より良い社会は実現するのかしら‥‥?

経済成長を実現することで富を創造し、

その富を適切に分配すると同時に、痛みを伴う経費は皆で負担し合う、

そんな理想的な社会は、我が国では実現できないものなのでしょうか‥‥?


これからも、自分なりの答えを見つけるために、この分野に関心を持ち続けたいと思います。

私の癒しのスポット

昨日は夕方の5時過ぎから、散歩がてら西の海岸に行きました。

午前中はよく晴れていたのに、この時間帯はあいにくの曇り空で、

残念ながら夕陽を見ることはできませんでした。

夕陽は見えなかったけれど、堰堤に座って、潮の香りを嗅ぎ、波の音を聴いていると、

次第に心も落ち着いてきます。身近に癒しのスポットがあることは、とても有難いことです。


また、昨日は、いつもと違った光景が目の前に広がっていました。

大量の流木が砂浜を占拠していたのです。

たぶん、先日来の大雨で海に流され、ここまで漂着してきたのでしょうね‥‥。


海岸に漂着した流木は、一般廃棄物になるのでしょうか‥?

だとしたら、その処理は市町村の自治事務になると思うのですが、

これだけの大量の流木を処理するのは容易ではありません。


私の癒しのスポットである海岸が、普段、美しいのは、

誰かが適切に維持管理されているからなのでしょうね‥‥。感謝しています。

いや、感謝しているだけではダメで、自らも清掃ボランティアに参加しないといけませんね。

いつも口ばっかりで行動に移せず、申し訳ありません‥‥。

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