しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「ナショナリズム」について考える

遅ればせながら、NHkテレビテキスト、別冊100分de名著「ナショナリズム」を読み終えました。

テキストで紹介されていた名著は次の4冊で、その解説者は次のとおりです。


・アンダーソンの「想像の共同体」 社会学者の大澤真幸さん

マキャベリの「君主論」     作家の島田雅彦さん

橋川文三の「昭和維新試論」   政治学者の中島岳志さん

安部公房の「方舟さくら丸」   漫画家のヤマザキマリさん


この4冊のなかで最も印象に残ったのは、アンダーソン「想像の共同体」で書かれていた

大澤先生の次のような解説でした。

『‥‥わたしはどうしてこのような者として生まれたのか。

 わたしはどうして、この世界において、このような者なのか。

 どうしてわたしはこんな苦しみを得なければならないのか。

 こうした偶然の事実に対して、はっきりとした理由が与えられると、それはわたしが引き受けられる、

 あるいは引き受けるべき宿命に転じます。

 「わたしはX人だ」というアイデンティティを与えるということは、

 はるかな過去から未来へと漂流していく「国民」という共同体の中に「わたし」の居場所を与えることです。

 これによって、たまたまわたしがこうであるという偶然の事実が、宿命へと変質します。

 わたしの存在に、大義をもって永続する共同体の一員という理由が与えられるからです。

 偶然の運命を必然の宿命へと転換すること。これは、宗教がかつて実現していた魔術です。

 この転換の魔術を、近代において代替したのがナショナリズムだった、

 というのがアンダーソンの考えです。

 いいかえれば、ナショナリズムとは、世俗化した宗教です。』


そして、大澤先生は、「現在、日本人の共同体は、ナショナリズムという観点で見たとき、

非常に基礎の脆弱なものになっているように思います。」、と述べられた後、

ナショナリズムは、国民という共同体が「我々の死者」をもつことを意味している、として、

その「我々の死者」について、次のようなことを述べられていました。


『‥‥「我々の死者」とは、次のような意味です。

 ひとつの国民が、「その人たちのおかげで現在の自分たちはあるのだ」と思えるような死者、

 自分たちは「その人たちの願望を引き継いで実現しようとしているのだ」と思える死者、

 そして自分たちが「その人たちから委託を受けて今、国の繁栄のために努力しているのだ」

 と思えるような死者。こういうものが「我々の死者」です。

 僕は、現代の日本のナショナリズムは危機にあると思っています。

 どうしてかというと、現代の日本人は「我々の死者」を失ったからです。

 「我々の死者」をもたないからです。問題は、いつ失ったのか、です。‥‥』


ここから先は、この日記には書ききれませんが、とにかく「圧巻」の内容でした。

大澤先生が紹介されていた、加藤典洋さんの「敗戦後論」も、ぜひ読んでみたいと思っています。

このほか、ヤマザキマリさが指摘された「選別と排除のメカニズム」など、

ナショナリズム」について、とても示唆に富んで、いろいろと考えさせられた、価値ある一冊でした。

「本格的な夏」が近づく

新型コロナワクチンを接種した翌日、つまり昨日7日は、

注射した部位である、左上腕部の痛みが丸一日続きました。

結構、痛かったのですが、今日になって、その痛みはようやく和らいできました。


そして、今日はなんだか身体が熱いっぽいので、今度は発熱の症状が起こったのかな?‥と思ったのですが、

そうではなくて、外の暑さのせいでした。

気温がぐんぐん上昇して、今日は真夏を思わせるようなお天気になりました。

東京都心では、今年初の真夏日だったそうです。

夏の暑さにも滅法弱い、わがままな身体の私ですが、その苦手な「本格的な夏」が近づいています‥‥。

コロナ対策と集合知

今日の日経新聞オピニオン欄「核心」に、藤井彰夫・論説委員長の執筆による

「経済学者のコロナとの闘い~社会実装へ英知結集を」というタイトルの論評が掲載されていて、

読んで大変勉強になりました。論評の後半には、次のようなことが書かれていました。


『‥‥経済理論に基づいて「ワクチン接種予約は混乱の恐れがある先着順にすべきではない」

 という研究結果を得ていた東大の小島教授は

 「我々としては早くから発信していたつもりだが世間に広くは伝わらなかった」と反省する。

 もう少し早く情報が広がっていれば、

 自治体の予約システムの設計段階で先着順を避けられたかもしれないからだ。

 「失敗の本質」の著書がある経営学の泰斗、野中郁次郎一橋大名誉教授に

 今回の政府のコロナ対応について聞いたところ書面でこんな回答が返ってきた。

 政府のワクチン対応について「手続き優先主義や権限にこだわった権威主義

 セクショナリズムがワクチン接種の遅れをもたらしたのは本当に残念」と指摘。

 そのうえで「危機の際は直面する困難をいかに迅速に判断し、

 対処するかという《集合知》が求められる」として

 「組織の枠を超えた産官学民のスクラムを状況の変化にあわせて組むことが必要」と訴えている。

 危機はまだ収束していない。これ以上の失敗を重ねないためには日本の英知を結集する時だ。』


そして、日経新聞電子版には、危機時における《集合知》の大切さなど、

野中郁次郎・一橋大名誉教授の書面回答の詳細な内容が掲載されていました。

少々長くなりますが、私が勉強になった記述を、次のとおり引用させていただきます。


『‥‥危機には、直面する困難をいかに迅速に判断し、対処するかという《集合知》が求められる。

 危機においてはその判断がその後の情勢を方向づけ、後戻りできない「一回性」を持つ。

 何度もシミュレーションができる平時とは大きく異なる。

 だからこそ、《集合知》を機動的に創造することが肝になる。

 その出発点は、一人ひとりが、「いま・ここ」で、

 他者、モノ、環境すべてに直接経験によって向き合う共感だ。

 その共感が、新しい「意味」や「価値」などの本質を直観する源泉だ。

 現実の直接経験を通じて共感しあう能力は、身体をもたない人工知能(AI)には難しい。

 直観した本質を徹底的な対話(知的コンバット)を通じて、コンセプトや仮説をつくり、

 人間の自由な想像力とAIなどデジタルを駆使し、試行錯誤を通じて《集合知》へと磨き上げる。

 対話に参加した一人ひとりが責任を自覚し、やり抜くことで、個人にも組織にも暗黙知が蓄積されていく。

        ~(中略)~
 
 このような《集合知》を機動的に創造するプロセスをけん引するのは、

 先の読めない不確実な状況のなかで、最善の判断を下す知を意味する賢慮(フロネシス)だ。

 賢慮は、瞬時に局面が変わっても、現場における共感と知的論争で、

 臨機応変に突破口を見いだすリーダーシップだ。

 リーダーが危機においてタイムリーに判断し実行するには、未来創造に向けた道筋と、

 どう行動すべきかを示す「物語」(ナラティブ)を紡ぎ出し、語りかけなければならない。

 これをわれわれは、ヒューマナイジング・ストラテジー(戦略の人間化)と呼んでいる。

 コロナ対策で政府や自治体は決して無策ではない。

 ただ、その努力が国民に伝わっていないことも事実で、

 説明不足であることがますます国民の不信感を醸成している。

 リーダーたちには、大きな目的の実現にむけ、どのような筋書きで未来をつくり、

 一人ひとりにどんな行動が求められるのか、レトリックも駆使して描き出し、

 多くの関係者や国民を勇気づけ、鼓舞し、士気を高めてほしい。物語には話者の生き方が投影される。

 覚悟をもって我々に語りかけてほしい。

 今後肝心なのは、ルールや箱モノをつくることだけではない。

 有事や極限において賢慮のリーダーシップを発揮できる人材育成の場づくりと抜てきだ。

 われわれには、国家の危機に挑むために立ち上がった下級武士、そしてそんな彼らを抜てきした藩主が、

 共にスクラムを組んで命を懸けて乗り切った明治維新の伝統がある。

 成功と失敗も含めて徹底的に現場経験を積み、強いプロを育成していく、

 それがわれわれに課せられた責務だ。

 分析的な戦略論を超えた人間重視の構想と実践が求められている。』 


う~む、なるほど‥‥。

徹底的な対話(知的コンバット)、賢慮(フロネシス)、「物語」(ナラティブ)、

ヒューマナイジング・ストラテジー(戦略の人間化)ですか‥‥。

いろいろと印象深い言葉や記述があって勉強になりましたが、

やはり一番は、「物語には話者の生き方が投影される。」でしょうか‥‥。

余韻がたっぷりと残るお言葉だと思います。

第1回目の接種を終えて‥‥

今日、新型コロナウイルスワクチンの第1回目の接種を、

集団接種会場である「松前公園体育館」で、無事に終えることができました。


接種に要した時間は、接種後の待機時間である15分を含め、約30分だったでしょうか‥‥。

接種業務に従事されている皆さんの対応は、予行演習を十二分にされていたのでしょうか、実に的確・適切で、

接種を受ける高齢者の方々も、その指示・指導を忠実に守っていて、人の流れはとてもスムーズでした。

注射はほとんど痛みはなく、接種後の副反応も、今のところ全くありません。


第1回目のワクチンの接種を終えて思ったのは、

日本人の国民性なのでしょうか、動き出すまでは時間がかかるかもしれないけれど、

いざ動きだすと、それ以降の対応は実に素早いものがあるということです。

これから高齢者以外の方の接種も本格化すると思いますが、

ワクチンの確保さえできれば、接種作業が円滑に進むであろうことを、ほぼ確信した次第です。


そして、その際に重要なのは、巷でも指摘されているように、とにかく接種できる人がいち早く接種を終えて、

社会全体でコロナウイルスに感染しにくい、あるいは、万が一に感染しても、

軽度で治癒できるような「免疫環境」を創っていくという、

「公平性」よりも、むしろ「効率性」を重視するべきではないのでしょうか‥‥?

皆さんよりも先に第1回目の接種を終えた私が、こんなことを言うのは大変恐縮なのですが、

そのような感想を抱いた次第です。


明日は、父の第1回目の接種日です‥‥。

「芒種」の日の雑感

今日から、二十四節気の「芒種」(6/5 ~ 6/20)、

七十二候では「蟷螂生ず(かまきり しょうず)」(6/5 ~ 6/10)です。

自宅近くの田んぼでは、水張をして田植えの準備が始まりました。

そして、その田んぼから、カエルの鳴き声を、今年初めて聞くことができました。


さて、昨晩は、アマゾン「Prime Video」で、「あなたが興味のありそうな映画」から、

ライ麦畑の反逆児~ひとりぼっちのサリンジャー』を視聴しました。

サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は、大学生の頃、ぜひ「読みたい本」の一冊でした。

でも、今の今まで、読むことはありませんでした。なぜ読まなかったのかしら‥?


原作を読んでいれば、もっとこの映画を、深く観賞することができたのではないかと思いました。

「じゃあ、これから原作を読んでみたら‥?」との「天の声」も聞こえてきますが、

如何せん、まだまだほかに「読みたい本」や「積読本」があまりにも多すぎるので、

優先順位としては後の方になりそうです。

そのうち、「100分de名著」で、この本が取り上げられることを期待したいと思います。