「やるせない」、「いたたまれない」、「悔しい」、「残念無念」……
どんな言葉をもってしても、
今の自分の気持ちを表わすことができない「もどかしさ」がありました。
踏切内に取り残された男性を助けようとして、
電車にはねられて死亡した村田奈津恵さんのことを
報道で初めて知った時の、私の正直な気持ちです。
そんな私の気持ちを代弁してくれるような記事が、
今朝の一面コラムにありました。。
まず、娘をもつ父親の気持ちを書いてくれたのが、産経新聞「産経抄」でした。
『父親の恵弘さんの運転する乗用車は、踏切前で待っていた。
助手席にいた奈津恵さんは、「助けなきゃ」と叫んで飛び出した。
恵弘さんの経営する不動産会社を手伝う奈津恵さんは、
普段から困っている人を見て見ぬふりができない性格だったという。
「娘には、『お前は死んだけど、おじいさんは助かったよ』と言いたい」。
恵弘さんは気丈に語っていた。
しかし、娘をもつ世の全ての父親たちに、
声にならない悲痛な叫びが、聞こえなかったはずがない。
「娘よ、俺より先になぜ死んだ」。』
お父様の「悲痛な叫び」は、確かに私にも届きました。
お父様の気丈な振る舞いが、同じように娘をもつ者の涙を誘います。
そして、「あなただったら、その時どうする?」という重い問いかけに
一つの「答」のようなものを示唆してくれたのが、日経新聞「春秋」でした。
『助けなきゃ」。父が止めるのを振り切った奈津恵さんの、それが最後の言葉だという。
たしかに人間は習慣が衣服を着たようなものかもしれない。
が、それだけではない。
前触れもなしに人生に割り込んでくるできごとにどう向き合うか。
咄嗟(とっさ)だからこそ、人の一番奥に潜むものがのぞく。
そんなことを考えさせられる。』
私の「一番奥に潜むもの」は何なのでしょうか?
平時も臆病で弱虫な私が、咄嗟の時にも同じように顔を出すような気がします。
それにつけても、
悲報に接した時の言葉は、つくづく無力であることを実感しました。
いまはただ、故人のご冥福をお祈りいたします。