早いもので今日で1月も終わりです。
昨日30日は、七十二候の「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」で、
鶏が鳥屋に入って卵を産み始める頃。本来、鶏は冬は産卵せず、春が近づくと卵を産むそうです。
そして、次の二十四節気は「立春」、七十二候は「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」で、
春の風が川や湖の氷を解かし始める頃。身を切るような寒さももうしばらくの辛抱ですね。
さて、今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、作家・いしいしんじさんの
『生きているそのあいだ、なるたけ多くの「終わり」に触れておく。
そのことが、人間の生を、いっそう引きしめ、切実に整える‥‥』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『人は自分という存在の始点も終点も知らないし、知りえもしない。
自分がどこから来てどこへ行くのか。いずれも霧の中だ。
でも、人の生が「終わり」を孕(はら)んでいるのは確か。
だとすれば、旅にせよ、茶事にせよ、小さな「終わり」をくり返し
「からだの芯へ収める」ことで、中途としての人生にも光が射(さ)す。
作家の『且坐(しゃざ)喫茶』から。』
う~む、なるほど‥‥。「からだの芯へ収める」ですか‥。すごく迫力がある言葉です。
芯に収めないと、何事も真に自分のものにはならないのでしょうね、きっと‥‥。
また一つ、新しい言葉の表現方法を勉強させてもらいました。