今日の朝日新聞デジタル版「耕論」に、『歴史奪う、公文書改ざん』というテーマで、
3人の有識者にインタビューした記事が掲載されていました。
このうち、歴史学者の磯田道史さんとノンフィクション作家の保阪正康さんが、
それぞれ次のようなことを述べられていました。
少々長くなりますが、この日記に書き残しておきます。
『政治家と公務員は暴れ馬です。乗る国民がそれを操縦するための手綱が公文書です。
しっかり制御しなければ、馬とともに崖から転げ落ちて死んでしまう。
歴史的検証に堪える行政をし、その正確な記録を、国民に提供するべきです。
正確な記録があれば、我々は、国としてどこに向かうかを決めることができます。
文字に記録された王がいる国らしきものが九州にできて約2千年。
議会政治になって130年足らず。国民主権になって70年余り。
一連の問題で公文書への高い意識が生まれつつある。日本の進化の歴史の一つだと思いたいです。
ちなみに、記録文化があった幕末にも、うその文書が出されたことがありました。
桜田門外の変です。大老だった井伊直弼の首を民衆が見ていたのに、
井伊家は、直弼は生きているという偽りの文書を出し、
幕府は天下万民の信用を失って倒れるきっかけとなりました。
見えているものに対してうそをついたら、政権は短命化する。歴史が証明する教訓です。』
『80年代に私は、米国の国立公文書館へ行きました。
「なぜ米国は戦争について実証的に調査したり、その記録を公開したりするのでしょう」
と尋ねると、担当者は「納税者への義務ですから」と答えた。
政府が戦争という政策に税金をどう使い、成果はどうだったのか。
国民への報告は当然だ、というのです。私たちは確かに、為政者に政治を任せます。
ただ、歴史を確定させる権限までは渡していないはずです。
戦前も今も日本の為政者に欠けているのは歴史への責任意識、歴史への良心だと私は思います。
たとえば、首相が退任したら5年以内に回想録を公表するよう義務づけることから
始めてみてはどうでしょう。米国ではしばしば大統領や側近がすぐれた回想録を発表しますが、
日本の昭和史の特徴の一つは、首相が回想録を著す例が少ないことだからです。
誠実に書かない元首相もいるでしょう。ただ、執筆に備えて資料を残そうとはするはずです。
そうした回想録や資料は、国民が歴史の教訓とは何かを学ぶ機会になると思います。』
う~む、なるほど‥‥。なお、保阪さんによると、
戦前が終わり戦後が始動した1945年8月に日本各地で起きたのは、
役人や軍人が公文書を大量に焼却する事件で、
陸軍省や内務省など多くの官庁で、庭から煙が立ち上がったそうです。
戦争責任を隠蔽する組織的行為の結果、戦争の政策がいつどう決定され、
どう進められたのか、戦後に国民が知ろうにも手がかりとなる記録がなくなったとのことでした。
お二人の論評を読んで、歴史的検証に堪える行政をして、
その正確な記録である公文書を、後世に残すことの大切さが理解できました。
ただ、私の地方公務員時代の記憶をたどると、公文書には保存期間というものがあって、
永年保存以外の書類は、期限到来後には原則として廃棄処分してしまいます。
そういう意味では、普段は馴染みのない「県史」や「市町村史」などの公的な書物を、
地方自治体が第三者的な立場で定期的に編纂して保存していくことは、
地味だけれどもとても大切なこと仕事なのだと改めて認識した次第です。