今日の日経新聞一面コラム「春秋」は、
今月9日にお亡くなりになった、瀬戸内寂聴さんを悼むコラムでした。その全文を引用させていただきます。
『99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんは2007年から約5年間、
本紙に毎週「奇縁まんだら」を連載していた。
物故した著名人らとの交友を、豊富なエピソードで振り返っている。
とりわけ同じ文学の道を歩む人らとの出会いと別れ、憧れや畏怖を描く筆致がさえていた。
彼女の初期の作品を酷評した評論家、平野謙の回では、
後になって「私の批評がまちがっていましたね」と明かされたと記す。
平野の滑稽なまでの生真面目さも暴露し、ちょっとした意趣返しにもみえる。
長年、不倫関係にあった作家の小田仁二郎の描写には、
まだ思いが残っているような、つやめいた余韻が漂っていた。
祝杯も干したが、苦汁もなめ尽くし、出家した後も、聖なる世界と俗界を自在に往還した生涯だった。
深く、そして広い体験からほとばしる言葉は、老若を問わず、女性を中心に多くの心を癒やし励ました。
作家や社会運動家の評伝に加え、70歳を過ぎてからの「源氏物語」の現代語訳は、
文学史に刻まれる偉業であろう。
評価の定まった最晩年になっても、かつて愛人だった作家の娘、井上荒野さんに、
往時の関係を明かして小説の素材を提供し、耳目を集めた。
「恋は雷が落ちてくるようなもの」。奔放で、とらわれない物言いは、もう聞くことがかなわない。
語り部であり、人生の灯台のようであり、そして世代を超えたアイドルだった。』
今、私の手元には、寂聴さん執筆の『寂聴 般若心経~生きるとは』(中公文庫)があります。
付箋を貼った個所のページをめくると、私のお気に入りの、次のような文章がありました。
『結局われわれは、身体がぼろぼろになっても、くたびれても、脳が少々ダメになっても、
失望しちゃいけないのね。
死ぬまで、与えられた命がある限りは、やはり努力しなきゃいけないんです。
そうすれば、老いた人はなお美しい。若い人が美しいのは、あたりまえ。
細胞がきれいなんだし、何もつけないでもピカピカ光る。
だけど、年寄りが美しいということは、その人が歩いてきた経験と知恵が滲み出て、
それが一つの美しい何かになるんですね。そんなふうな年寄りになりたいものですね。』
『私たちの肉体はたしかに老い、病み、そして必ず死んでいきます。
けれども、愛する人を失った者にはよくわかるのですが、私たちは彼らの魂の死を認めることが出来ません。
私たちが彼らを想うたび、彼らはむしろ、生きていた時以上に、
なまなましく私たちの心によみがえり、ぴったりと寄りそいます。
その時、死者は私たちの心に確かに生きているのです。その時は死者の生命は不滅です。
私たちはある日、ある時、愛する人と見た月や花を忘れることはありません。
でもその時の月は消え、花は散っているのです。
それでも私たちの心の中には、その時の月も花もその日の美しさのままで生き続けています。
記憶の中に不滅です。』
今日の愛媛新聞には、「私の中では仏教と文学は一つです」という寂聴さんの語録も紹介されていました。
今宵は、寂聴さんのご冥福を祈りながら、般若心経を唱えることにしましょうか‥‥。