しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「転倒した社会」を考える

久しぶりによく晴れて、しかも気温が上昇して、比較的暖かい一日となりました。

やはり、青空が広がると、気分も晴れやかになります。


さて、今週の月曜日から、日経新聞「文化」欄で、『コロナ禍の思想』の連載が始まりました。

その第二回目の執筆者は、社会学者の酒井隆史さんで、タイトルは「転倒した労働の価値」でした。

とても勉強になる内容だったので、少し長くなりますが、次のとおり引用させていただきます。
 

『人間は労働からの解放を目指して産業と社会機構を発展させてきた。

 経済学者のケインズは、自由な市場原理に基づく経済成長や産業合理化、日進月歩の科学技術を根拠に

 「孫たちの経済的可能性」(1930年)を書いた。

 世界を成立させるのに不可欠な労働は減少し、週15時間働けば十分な時代が到来する、と予言した。

 ところが、現実は異なる。コロナ禍では在宅ワークなどの新しい生活様式が生まれ、

 仕事の要否を検討する必要に迫られた。

 すると、実は何の役にも立たない、仕事のための仕事が多くあったことに気づかされた。

 手間のかかる書類作成、無意味な会議や部下の管理‥‥。

 こうした仕事は「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」と呼ばれ、

 自分の仕事が不要だと自覚した人たちから共感の声が集まった。

 一方、医療や介護に従事し「ケア階級」と呼ばれるエッセンシャルワーカーの存在も際だった。

 感染リスクと最前線で闘う彼らの仕事は社会の維持には欠かせない。

 だがその価値とは裏腹に、低賃金・重労働など労働条件が悲惨な場合も多い。

 コロナ禍では、ブルシット・ジョブとエッセンシャルワークの

 価値と評価の転倒した労働観が浮き彫りになった。

 こうした転倒が起きたのは、近代以降、労働の価値を数値化したことが一つの原因だ。

 資本主義は爆発的な経済成長をもたらし、人々の生活を豊かにした。

 その過程で、商品を生産するなどの成長と結びつく労働だけが価値を認められる、市場の論理が作られた。

 一方、ケア階級などの生産に直結しない、数値で測ることが難しい労働は、

 市場価値が中心の世の中で不可視化された。

 彼らはコミュニティーを成り立たせるのに欠かせない存在だが、

 「やりがい搾取」に近い働き方を強いられた。

 経済成長に頭打ちが見えた20世紀末、「生産と消費が社会を豊かにする」という幻想が崩れた。

 この事実に気づいた資本家たちは、生産以外の新しい既得権益を模索し、既存のパイを独占し始めた。

 コスト削減を名目に製造業などの労働者を切り捨て、ブルシット・ジョブを生み出した。

 コロナ下では、利益にならない医療資源を削減し、経済を優先する政策も一部に見られた。

 だが、私たちはこの社会を本当に維持している労働とは何かを知ることができた。

 経済なくして生命は成り立たないが、経済の土台に生命があることを忘れてはならない。

 ケア階級の人々をこの災禍の一時的な英雄にしないためにも

 資本主義とは異なる論理を立てて再評価することが求められている。

 転倒が起きているのは労働観だけではない。

 政策より誰を選ぶかに躍起になる選挙や、本来の教育目的から逸脱した学校など、

 目的と手段の転倒は社会の隅々にまん延している。人間は本来、何を望んでいるのか。何を求めているのか。

 資本主義を含め、既存の理論やシステムから離れて問い直すことが必要だ。

 そのために、私たちは想像力を持っているのだから。‥‥』


う~む、なるほど‥‥。「仕事のための仕事」ですか‥。

長い地方公務員時代を振り返ると、その多くが「仕事のための仕事」だったような気がしています。

そして、「価値と評価の転倒」「目的と手段の転倒」という社会現象。

酒井先生によれば、私たちは「転倒した社会」を生きているのですね‥。


「人間は本来、何を望んでいるのか。何を求めているのか?」と問われても、

想像力がほとんど働かない自分が、ちょっと情けなくなります‥‥。