遅まきながら、古本屋で手に入れた『大河の一滴』(五木寛之著:幻冬舎文庫)を読了しました。
たくさんの印象に残る記述がありましたが、そのなかでも、次のような一連の考え方が心に沁みました。
『最近では、人間の値打ちというものは、生きているーー
この世に生まれて、とにかく生きつづけ、今日まで生きている、そのことにまずあるのであって、
生きている人間が何事を成し遂げてきたか、という人生の収支決算は、それはそれで、
二番目ぐらいに大事に考えていいのではなかろうか、と思うようになりました。』
『先(死)は見えているにもかかわらず、ぼくたちはそれに絶望せずに生きていく。
そのことを考えると、生きている、というだけでも、
どれほど大切なことを人間はやり遂げているか、と考えざるをえません。』
『人間は一生、なにもせずに、ぼんやり生きただけでも、ぼんやり生きたと見えただけでも
じつは大変な闘いをしながら生き続けてきたのだ、というふうに、ぼくは考えます。』
いゃあ~、驚きました。
このような一連の考え方は、16世紀フランスのモラリスト、
モンテーニュの「あなたは生きてきたではないか!」という思考に相通じるものがあります。
そしてもちろんのこと、本書のタイトルにもなっている次の記述は、心打つものがありました。
『「人はみな大河の一滴」
それは小さな一滴の水の粒にしかすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、
永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら
私にはごく自然にそう感じられるのだった。
‥‥私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に還る。
母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼっていく。
そしてふたたび地上へ。‥‥』
『運命の足音』とともに、座右の書の一つになりそうです‥‥。