昨日の続きです‥。
4月25日(木)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、マルティン・ブーバーの
「エーテルの波はつねに送られているが、しかし、われわれはたいてい、
受信機(レシーヴァー)をはずしているのである。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『生きているというのは「語りかけられている」ことだと哲学者は言う。
その語りはじかに私に向けられたものでも、人の声でもないかもしれないが、
紛れもなく私に、応答することを求めている。
なのに私たちは「甲冑で身をかため」、この言葉の芽を摘むという「怪物的行為」に耽ってばかりいると。
「我と汝・対話」(植田重雄訳)から。』
なるほど、生きているというのは「語りかけられている」ことですか‥。
わが人生を振り返れば、肝心な時に受信機をはずしてばかりいたのかもしれません‥‥。
次に、4月27日(土)は、勝海舟の教師の
「時間さへあらば、市中を散歩して、何事となく見覚えておけ、いつかは必ず用がある」
という「ことば」で、これまた鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『徳川の旧幕臣は、かつて長崎で修学中、教師に教わったこのことを肝に銘じているという。
政治はつねに世態や人情を「実地」でよく観察し、事情に通じていないとだめだ。
だから江戸に戻っても、暇さえあれば、目抜き通りから場末、貧民窟まで歩き回った。
それが官軍による江戸攻めという非常の時役立ったと。「氷川清話」から。』
へぇ~、勝海舟は徹底した現場主義者だったのですね。知りませんでした。
「平時の現場主義が有事の際に役立つ」というのは、今も変わらない鉄則だと思います‥‥。