しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

気にならない服

今朝放送された「NHKNEWSおはよう日本」に、

ファーストリテイリング柳井正会長兼社長が出演されていました。

コロナ時代の企業戦略について、示唆に富む柳井社長の発言を、番組HPから抜き出してみました。


・お客様の生活が、コロナのせいもあるが、デジタルの時代に移っていく、あるいは移っている。

 数年間のもの(デジタル化)が、この1年間に凝縮されて、

 移り変わりがすごくはやくなったのではないか。それに対応しないといけない。


・今までは服への思い入れが過剰に強いか、ほとんど関心がないか、人に合わせることがほとんど。

 これからは一人一人、別々に変わった服を着るのではなく、

 いちばん“気にならない服”を着るようになるんじゃないか。


・コロナで本当に分かったことは、世界はつながっているということ。

 サプライチェーンが一時シャットダウンされたとしてもそれは一時的なことなので、

 長い目で見たらグローバル化が重要。

 世界中でいちばんいいところで作って、いちばん価値があるものを作る。

 日本が生き残る道だと思う。


う~む、なるほど‥‥。

これら発言のポイントは、番組HPの小見出しにもあるように、

「コロナがデジタル時代を加速」「場所を選ばず“気にならない服”が求められる」

グローバル化の重要性をコロナで認識」なのですね‥‥。


私は、柳井社長の発言のなかでも、

「これからは一人一人、別々に変わった服を着るのではなく、

いちばん“気にならない服”を着るようになるんじゃないか。」という発言が一番印象に残りました。

自宅でも自宅外でも、同じ服装でいられるのは、

服への関心がほとんどない私にとっては、とっても有難いお話しです。


こういう理想的な時代が来れば、今までのように、外出する際に、

我が家の奥様から「その服はダサい!!何を着ても似合わないのは仕方がないけれど、

せめてこの服装に着替えて!!」と言われなくて済みそうです。(苦笑)


でも、念のため確認しますが、

“気にならない服”って、まさか「パジャマみたいな服」ではないんでしょうね‥‥。

知の自立の必要性

PHP総合研究所のHPに、中西寛京都大学法学研究科教授の執筆による

「世界が迎える大転換と日本の課題」というタイトルの論評が掲載されていました。

自分で大切だと思う箇所を、次のとおり抜き出してみました。


・日本はグローバリゼーションに一定範囲で適応しつつも、

 戦後昭和の工業文明時代の枠組みもできるだけ維持しようとしたのである。

 しかしこの「良いところどり」の日本型モデルの前提は崩れはじめていた。

 そのことはじつにさまざまな局面で表れていたが、

 多くの問題に共通していたのは、少子化に伴う人手不足によって、

 グローバリゼーションのなかでも国内においては

 昭和時代のアナログ的な仕組み・文化を維持することがほぼ不可能になりつつあったことであろう。


・こうした仕組みの問題は、今回のパンデミックにより、日本国内でのみ用いられるハンコ文化や、

 保健所からの電話による接触者追跡、FAXによる情報管理から郵送での給付金手続きに至るまで、

 さらに明らかにされたのである。


・しかし同時に、日本企業の大きな内部留保や、

 長年にわたり感染症に苦しんできたことからくる衛生習慣

 (マスクの普及は100年前のパンデミック以来だし、

 新型コロナへの効果が語られるBCGが日本で普及しているのは結核の中蔓延国だからである)は

 パンデミックにおいても有利に作用しているのかもしれない。


・総じて、人間社会のすべてをデジタル化していくことはできないし、

 アナログ的な要素は人間の強みである。

 情報テクノロジーの発達という必然的な環境のなかで、

 デジタル化、ヴァーチュアル化すべきものと、

 できないもの、すべきでないものの切り分けと組み合せが今後の世界的課題となるであろうし、

 日本が自らの実践を鋭ぎすますことによって世界に貢献できるあり方ではないだろうか。


・世界に貢献するのは、客観的な分析を踏まえた教訓であり、

 情緒的な成功失敗の評価では世界にとって役に立たず、特異例と扱われるだけに終わってしまう。

 それでは、国際的な力にはならない。


・同様に、日本は自らの利点と弱点を普遍的な価値基準で分析し、ビジョンをつくっていく必要がある。

 必要なのは「舶来輸入」の拝外主義でもなければ「日本礼賛」の排外主義でもなく、

 客観的、包括的視点からの自己評価であり、ビジョンの構築であり、課題の設定である。


パンデミック下の世界にあってあらためて感じるのは、

 自らを徹底的に客観化するという意味での知の自立の必要性である。


う~む、なるほど‥‥。

このなかでも、「情報テクノロジーの発達という必然的な環境のなかで、

デジタル化、ヴァーチュアル化すべきものと、

できないもの、すべきでないものの切り分けと組み合せが今後の世界的課題となるであろう」

という記述が、とりわけ印象に残りました。


ところで、今回のコノナ禍に関して、

様々な有識者の論考・論評・エッセイなどを拝読して思ったのは、

日本の感染者数と死亡者数が他国と比べて少ないのは、

「為政者の力」ではなく「現場の力」であること、

また、「客観的な自己分析と事後検証が必要であること」については、

ほとんど認識・見解の差異がないことです。

中西先生は、そのことを「知の自立の必要性」と的確に表現されたのだと、自分なりに解釈しました。

時代おくれ‥‥?

新型コロナウイルス感染症対策の外出自粛要請等の緩和措置を受け、

私の職場でも、仕事が徐々に平常モードに戻りつつあります。

今日は、午前中に2時間、午後に2時間、関係機関の参集者がそれぞれ10人未満という

必要最小限の人数で打ち合わせとヒアリングを実施しました。正直、とても疲れました。


最近では、テレワークやWEB会議という、特定の場所に居ながらの働き方が定着しつつありますが、

やっぱり世の中には、「face to face」、つまりは、共通の書類を同時に確認しながら、

「差し向かい」で話を詰めていく仕事というのが、どうしても必要な局面があるように思います。

(特に、行政分野の仕事には、こうした仕事が今でも多いと思います。)


こういう考え方の私は、所詮は世の中の動きについていけない、

頭の固い「時代おくれ」の人間なのでしょうか‥‥?

不安定なお天気の一日

今日は不安定なお天気となりました。

午前中は晴れ間が広がっていましたが、お昼過ぎからは急に風雨が強まり、

止んだかと思うと、また雨脚が強くなる、その繰り返しの、不安定なお天気でした。

雨脚が強くなるたびに、窓を閉めたり開けたりしたので、家の中をかれこれ歩いたように思います。

いゃあ~それにしても、この時期のじっとりとした蒸し暑さは、けっこう堪えがたいものがあります‥。


さて、しばらく中断されていた「第70回NHK杯テレビ将棋トーナメント」は、

今日の1回戦第5局の放送から再開されたようです。

谷川浩司9段と中村太地7段の対局で、終盤までハラハラドキドキの展開でしたが、

最後は谷川9段が勝利しました。

対局の様子は様変わりしていて、対局者は椅子に腰かけ、その間には透明な仕切り版が設置され、

両者ともマスクを着用されていました。棋譜読み上げと記録もお一人でした。

ちょっと違和感があったけれど、将棋の対局もこれが見慣れた「新常態」になるのでしょうね‥‥。


追記 最近、外に出掛けることが少なくなったせいか、将棋をテレビ観戦する機会が多くなっています。

わが内なる道徳法則

NHKテキスト「100分de名著」の「カント~純粋理性批判」を読了しました。

テキストの執筆者は、西研東京医科大学哲学教室教授です。

原本はとても難しそうなので、私は読んだことがありませんが、

このテキストは、西先生が分かりやすく解説されていて、カント哲学の概要を知ることができました。


この日記に書き残しておきたい記述は多々あったのですが、

そのなかから、「カントが思い描いた理想郷」について書かれた、次の記述を選択することにしました。


『「実践理性批判」の結びに、有名な言葉があります。

 わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、

 ますます新たな讃嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。

 それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。

 ここで引用したのは、カントの墓碑にも刻まれている一節です。

 はるかなる宇宙と道徳的に生きることの価値を、

 並列して高らかに謳っているのがなんともカントらしい。

 カントは、道徳的に生きるという新しい理想を示しました。

 あらためて確認しておけば、彼が実現すべき世界として思い描いていたのは、身分の上下がなく、

 すべての人が自由で対等な存在として尊重しあい、調和して暮らしている世界です。

 そこには明らかに、ルソーの自由な共和国のイメージが反映されていますが、

 一国内での調和だけでなく、人類の調和まで射程に入れています。(「永遠平和のために」)。

 そして彼は、この「道徳的世界の一員としてふさわしく行為すること」を、

 新たな生き方の理想として、提示しようとしました。

 個の道徳論には、次のようなメツセージがあったと私は思います‥‥

 「どんなに貧しくても苦しくても、心正しく生きよ。

 そこにこそ理性的存在者(叡智界の一員)としての誇りがあるのだ」。

 また、「自分が正しいと判断したことは、まわりの人がすぐに納得してくれなくても、

 とことん貫いて生きていけ」と。

 カントの道徳思想は、社会のなかでの成功や富や評判にまどわされない、

 人としての最高の生き方を示すことであり、

 そして、新たな自由な生き方への呼びかけでもありました。』


う~む‥‥、これってまるで、洪自誠の「菜根譚」に出てくる、次の一節ではありませんか‥‥。

『道徳に棲守(せいしゅ)する者は、一時に寂寞(せきばく)たるも、

 権勢に依阿(いあ)する者は、万古に凄涼(せいりょう)たり。

 達人は物外の物を観じ、身後の身を思う。

 寧(むし)ろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ること毋(なか)れ。(講談社学術文庫)』


西先生は、科学的な知や人間の価値の根拠を考えることは、

今後、ますます重要な課題となっていくはずで、

それについて大規模で体系的な構想をつくり上げたのは、

間違いなくカントであり「純粋理性批判」だと述べられていました。


哲学の面白さが少し分かったような‥‥、そんな気持ちにさせてくれる良書でした。