『日めくり 子規・漱石』というコラムの連載が続いています。
私には俳句という高尚な趣味はありませんが、
今はこの連載を毎日楽しみにしていて、
しかも記事をスクラップにして保存し、折に触れ読み返すことにしています。
最近では、21日と22日に掲載された夏目漱石と正岡子規の俳句と、
それぞれの俳句に対についての神野さんの解説が印象に残っています。
まず、21日は、夏目漱石の
『累々と 徳孤(とくこ)ならずの 蜜柑(みかん)哉』という句で、
神野さんの次のような解説がありました。
『「徳孤」とは「論語」の「徳は孤ならず必ず隣有り」から。
徳を備えた人は、真に孤独でない。
高潔さや実直さが敬遠されても、必ず隣人=理解者が存在する。
そんな高尚な人生訓を、日常代表の果物・蜜柑の描写に用い、滑稽味を出した。
累々と積まれた蜜柑を、徳の高い人とその理解者たちに見立てるとは。』
次に、22日は、正岡子規の
『筆ちびて かすれし冬の 日記哉』という句で、
神野さんの次のような解説がありました。
『ちびた筆も、命をすり減らし書く子規も、満身創痍。
そんな冬に、それでも書く日記であるぞ。「哉」の切字に力が宿る。』
う~む……、どちらも味わい深い俳句だと思います。
漱石の句には明治人の教養が滲み出ていますし、
子規の句には、神野さんご指摘のとおり、「気迫」というものが伝わってきます。
ところで、この『しんちゃんの老いじたく日記』は、
「はてなブログ」の便利な機能に助けられて、
「書いては書き直す」、「文章を入れ替える」、「写真を添付する」という作業が、
「筆」なしにパソコン上で、いとも簡単にできてしまいます。
子規の「命をすり減らし」とまではいきませんが、ちょっとその便利さに甘えて、
つれづれの文章には、「生きることへの真剣さ」が欠けているかもしれません。
こうした私の例を引き合いに出すまでもなく、
現代人は、「便利さ」や「快適さ」と引き替えに、
「真剣さ」や「真面目さ」というものを、いつの間にか失っているのかもしれません。
漱石の「あなたははらの底から真面目ですか」
という声も聞こえてきそうな気がします。