今日29日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、マックス・ヴェーバーの
『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、
堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業である。』という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『奉仕へのひたむきな情熱と、距離を置いて状況を目測する冷徹な判断力。
相反するこの二つは、起こりうるあらゆる責任を引き受ける
強靱(きょうじん)な意志の中でのみ一つに結び合わされると、ドイツの社会学者は言う。
逆に、外面(そとづら)ばかりを整える「空虚なジェスチュア」の背後には
内的な脆(もろ)さしかないと。『職業としての政治』(脇圭平〈けいへい〉訳)から。』
この言葉で思い起こすのは、昨年8月21の日経新聞に掲載された
芹川洋一・論説主幹の『なぜ政治家は劣化したか~「回転ドア」で質の向上を』という論評です。
そこには、次のようなことが書かれていました。
『 ~(略)~ 政治家の志という面も忘れてはならない。
激しい権力闘争を繰りひろげていた昭和の政治家には
良しあしは別に貫く棒のようなものがあった。
「政治とは何か。生活である」と明快だったのは田中角栄である。
戦後の廃虚の中からいかにして豊かな社会をつくっていくかが政治の基本命題だった。
ただ「政治は力、力の源泉はカネ」とされる金権体質があったのは事実だ。
これを「政治は最高の道徳である」と真っ向から批判したのが福田赳夫だった。
ことあるごとにマックス・ウェーバーの言葉をひきながら
「職業としての政治」を説いた田中六助のような人もいた。
政調会長当時、衆院本会議での代表質問でもウェーバーを持ちだし
中曽根康弘首相に政治倫理をただしたほどだ。
「政治とは権力に参加しようとする努力である。権力とは何ぞやという設問に対し、
禁欲が政治家の大きな課題であり、物に対する欲をなくすることが
職業としての政治家の大きな務めだと指摘しておるのであります」(83年1月27日)
本人がどこまで実践できたかはともかく、職業政治家としての規範を持っていたのはたしかだ。
今の政治家にそうした自らよって立つところがあるかどうかということだ。』
う~む‥‥。「貫く棒のようなもの」ですか‥‥。
これは政治家に限らず、私たちにも「人として」必要なものかもしれませんね‥‥。
ちなみに、芹川さんはこの論評のなかで、次のようにも述べられていました。
『「この国民にしてこの政府あり」といったのは
19世紀の英国の歴史家トーマス・カーライルだが、「この国民にしてこの政治家あり」。
劣化した政治家はわれわれ自身を映す鏡であるのも自覚しておかなければならないのだろう。』
はぃ、確かにおっしゃるとおりですね。これからも心したいと思います‥‥。
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