昨日の続きです‥。
5月1日(水)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、内田樹さんの
「知的であるためにはある種の無防備さが必要だ」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『無知とは知識の欠如でなく、ジャンクな情報で頭がぎっしり詰まっていて
新しい情報の入力ができない状態のことだと、思想家・武道家は言う。
これに対し、学びとは、入力があるたびに
それを容(い)れる器そのものの形状や容積が変化してゆくこと。
危うくもあるこのプロセスを、生徒らが傷つくことなく通過できるよう慮るのが教育だと。
「だからあれほど言ったのに」から。』
はぃ、「無知」と「学び」についての含蓄に富むお言葉です‥。
私はいつも「知に無防備」なんだけど、器の形状や容量が変化していないのかしれません。
「学び」ができていないということかしら‥‥?