今日22日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、E・M・フォースターの
『情報は正確なときに真理となり、詩は自立したまとまりを持つときに真理となる。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『情報については誰がどこで目撃したかが重要。だからそこには署名が必要だ。が、詩は逆。
重要なのは誰が書いたかではなく、目の前の事象以上に「本質的」な世界を生みだす作品そのものであって、
作者も読者もそれに「創造的」にかかわる時、作者が誰かはもはや問題ではない。
文学は「無名の状態を目ざす」と英国の批評家は言う。評論「無名ということ」(小野寺健訳)から。』
う~む、なるほど‥‥。
E・M・フォースターの言葉も、鷲田さんの解説も、言われていることは何となく理解できます。
このコラムを読んで、今月17日の日経新聞「NIKEEI The STYLE」の「名作コンシェルジュ」のコーナーで、
文芸評論家の若松英輔さんが、「見えぬもの感じた詩人 悲しみ生き抜いた言葉」というタイトルで、
茨木のり子さんの「椅(よ)りかからず」(ちくま文庫)という詩集を紹介されていたことを思い出しました。
この「倚りかからず」は、谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)にも収録されていて、
私はいつも枕元に置いて、いつでも読めるような状態にしています。
その茨木さんの詩のなかで、私のお気に入りは「自分の感受性ぐらい」です。
『ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて
~ (中略) ~
初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ』
くじけそうになった時、いつもこの言葉に助けられています。
鷲田さんは、「作者も読者もそれに「創造的」にかかわる時、作者が誰かはもはや問題ではない。」
とおっしゃっていましたが、読者である私は、いまだその「創造的な境地」に達したことがありません‥‥。
ちなみに、茨木さんは、その著書『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で、
『いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。
いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。
どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。』
はぃ‥、詩の本質というものを表現する言葉として、
私はこの、詩は「ことばの花々」という説明に、大いに納得するところがあります。

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