昨日のこの日記で取り上げた、高橋源一郎さんのエッセイの中に、
「危機に際して、作家は、内なる本能に目覚める。
それは、世界を記録し、人びとの記憶のうちに留めたいという本能だ。」という記述がありました。
『コロナ危機で問われる言葉』というタイトルの時評が掲載されていて、
そこには次のようなことが書かれていました。
『この災厄は、なんとさまざまな言葉を生み出したことだろう。
新型コロナウイルスが地上に現れて半年。その猛威が社会を凍りつかせて三カ月余り。
疫病禍をめぐる新しい言葉が次から次へと誕生し、人々に広まった。
「1~2週間が瀬戸際」「3密」「オーバーシュート」「人との接触8割削減」
「ソーシャル・ディスタンス」「ステイホーム」「新しい生活様式」
~ (中略) ~
言葉、言葉、言葉‥‥。ここにきて、やや勢いを鈍らせたかのようにみえるコロナウイルスだが、
世界が魔物から逃れられるのはずっと先だろう。
だから、これからも新たな言葉が生まれては問われていくに違いない。
「僕は忘れたくない」‥‥。イタリアの作家、パオロ・ジョルダーノ氏は
「コロナの時代の僕ら」(飯田亮介訳)のあとがきで、あまたの「忘れたくない」ことを挙げ、
こう締めくくる。
「僕は忘れたくない。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、
自分すらろくに励ませなかったことを」
こうした思索と内省が、新しい時代の文学として立ち上がってくるかもしれない。
2020年の異様な光景を忘れず、自らの言葉で語り継ぐ責務が、この時代の私たちにはある。』
う~む、なるほど‥‥。「自らの言葉で語り継ぐ責務が、この時代の私たちにはある」ですか‥‥。
だとすると、「はてなブログ」をはじめとして、日々のブログに思索と内省を書いている市井の人も、
本人が気がつかないうちに、いつのまにか「その時代の語り手」になっているのかもしれません‥‥。