今月19日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、評論家・福田恆存(ふくだつねあり)の
「なにかを知るということは、身軽に飛ぶことではなく、重荷を負って背をかがめることになるのです。」
という言葉で、いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『人は何かを知ることでもっと遠くへ行ける、もっと新しい世界が開けると思うが、
それはいま以上に「大きな未知の世界を、眼前にひきすえた」ということなのだと、劇作家・評論家は言う。
人はそこに開けてくる光景に無関心でいないと心に刻んだのであり、
だから他人の言葉にも深く耳を傾けるようになると。「私の幸福論」から。』
う~む、なるほど‥‥。「重荷を負って背をかがめる」ですか‥。
「知る」ということの本質を突いた言葉だと思います。
そして、今日の日経新聞一面コラム「春秋」は、私の心の琴線に触れるコラムでした。
私は、この手のコラムに滅法弱いのです。その全文をこの日記に書き残しておきます。
『2000年のシドニー五輪のソフトボール日本対米国の決勝戦。
延長タイブレーク八回裏、米国選手の打球がゆるやかな弧を描いてレフトに飛んだ。
捕れる。ベンチは確信した。ボールはグラブに収まったかに見えた。
が、転倒しこぼれ落ちた。サヨナラ負けを喫した。
左翼の選手が更衣室でうなだれていた。
チームを率いた宇津木妙子監督は、長く後悔するひと言を発してしまう。
「いつまで泣いているんだ。おまえのエラーで負けたんだろ」。
励ますつもりだったが、言い過ぎてしまった。
ナインの気持ちを代弁し、主砲の宇津木麗華選手が声をあげた。「あれは、みんなのエラーです」
「ソフトボール・マガジン」8月号で妙子さんが述懐している。
「選手のせいにした自分が今でも恥ずかしい」「なんて情けない監督なんだ」――。
監督は、こうと決めたら最後まで迷わずにやりきるしかない。
それで負けたら、責任はすべて指揮官にあるのだ。
東京五輪のスタッフに、自分の経験と反省を伝えたい、と。
宇津木麗華監督が胴上げされた。北京出身。妙子さんに憧れ、反対する父親を説得して、日本に帰化する。
日本代表で金。自身の夢と、中継にくぎ付けになった人々の願いを、冷静な采配でかなえてくれた。
試合後、エース上野由岐子投手を「神様」とたたえ、周囲に頭を下げていた。
「2人の宇津木」の物語が完結した。』
なぜか、「重荷を負って背をかがめる」という言葉が、このコラムにオーバーラップしました。