雲の間から薄日が差し、気温も比較的涼しかったので、今日は午前中にウォーキングをしました。
まとまった距離を歩くのは、随分と久しぶりのことでした。
さて、Kindle端末で、『戦艦大和ノ最期』(吉田満著:講談社文芸文庫)を読みました。
文語体で書かれていて最初は読みにくかったけれど、それも徐々に慣れると同時に、
文語体ならではの独特な「格調」という調べも、次第に味わうことができるようになりました。
なぜ、この本が文語体で書かれているのか、昭和27年7月の「初版あとがき」で、
著者は次のように述べられていました。
『全篇が文語体を以て書かれていることについて、私に特に嗜好があるわけではない。
初めから意図したものでもない。第一行を書き下した時、おのずからすでにそれは文語体であった。
何故そうであるのか。
しいていえば、第一は、死生の体験の重みと余情とが、日常語に乗り難いことであろう。
第二は、戦争を、その只中に入って描こうとする場合、〝戦い〟というものの持つリズムが、
この文体の格調を要求するということであろう。』
なるほど、私が味わったのは、文語体の格調だけでなく、著者による「死生の体験と余情」だったのですね。
そして、私が胸を打たれたのは、本文はさることながら、さきほどの「初版あとがき」の中の、
著者の次のような記述でした。
『この作品の初稿は、終戦の直後、ほとんど一日を以て書かれた。
執筆の動機は、敗戦という空白によって社会生活の出発を奪われた私自身の、反省と潜心のために、
戦争のもたらした最も生々しい体験を、ありのままに刻みつけてみることにあった。』
『‥‥前に発表された際、これは戦争肯定の文学であり、軍国精神鼓吹の小説であるとの批判が、
かなり強く行われた。この作品の中に、敵愾心とか、軍人魂とか、
日本人の矜持とかを強調する表現が、少なからず含まれていることは確かである。
だが、前にも書いたように、この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのままに描こうとした。
ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。
我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。
若者が、最期の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、
むしろ自然ではなかろうか。
戦歿学生の手記などを読むと、はげしい戦争憎悪が専らとり上げられているが、
このような編集方針は、一つの先入主にとらわれていると思う。
戦争を一途に嫌悪し、心の中にこれを否定しつくそうとする者と、生涯の最後の体験である戦闘の中に、
些かなりとも意義を見出して死のうと心を砕く者と、この両者に、その苦しみの純度において、
悲惨さにおいて、根本的な違いがあるであろうか。(いうまでもなく、戦争の上にあぐらをかき、
これに利己的に妥協し、便乗していた者は論外である。)
このような昂りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振舞うべきであったのかを、
教えていただきたい。‥‥』
評判どおりの本でした。読めてよかったです。世代を超えて語り継がれるべき名著だと思います。