「阪神日本一」を受けて、今日の愛媛新聞に、人類学者の植島啓司さんが、
「「次こそ優勝」願い続け~当たり前でない幸福 醍醐味」というタイトルの随筆を寄稿されていました。
そこには次のようなことが書かれていました。
『‥‥いずれにしても、時代は変わっていく。私の身近には甲子園球場の年間指定席を
86年から36年間買い続けて、一度も阪神が日本一になる瞬間を見られずに亡くなった知人もいた。
しかし人類学の文献などによると、苦労して獲物を追う狩猟採集の生活をしている人たちは、
何もせずにいて十分な食料が得られる人たちよりもはるかに充実した毎日を送っているともいわれる。
次こそ優勝するに違いないという希望を持って生きている人たちの方が、
「幸福」を当たり前と捉えている人たちよりも、幸福度は高いのではないだろうか。
阪神ファンであることの醍醐味は、そんなところにもあるのだろうと思う。‥‥』
「次こそ優勝するに違いないという希望を持って生きている人たち」‥。
はぃ、阪神ファンの「生き様」を見事に言い当てていると感じました‥‥。
さて、『宗教を「信じる」とはどういうことか』(石川明人著:ちくまプリマー新書)を読了しました。
本書では、「第三章 この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか」のなかの、
次のような記述が特に印象に残りました。
『キリスト教では、この世界は神が造ったものだとされ、その神は「愛」であり、「善」であり、
かつ「全能」だとされています。しかし、善であり全能である神が造ったこの世界に
さまざまな苦しみや悲しみがあるなんて、矛盾以外のなにものでもありません。
この世界にそうした「悪」が存在していること自体が、神なんて存在しないという何よりの証拠である、
という主張は昔からありましたし、今でもあります。
「悪の存在」は、「神は信じるに値するのか」という問いに直結するので、
宗教について検討しようとする際の最も重要なポイントだと言ってもいいでしょう。‥‥』
そのほか本書には、ニーバーの祈り、星野富弘さんの詩、新約聖書や哲学者などの言葉が、
随所に引用されていました。例えば次のような‥。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(新約聖書)
「現世利益のために神に祈るとか、神助を頼むとか、神罰を恐れるといった態度は「真の宗教」ではなく
「利己心の変形」にすぎない」(西田幾多郎)
「神の前で、神と共に、われわれは神なしで生きる」(ボンヘッファー)
「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(パウロ)
「私には死ぬという大切な仕事が残っている」(三浦綾子)
「思想というのは、あくまでも自分で思索してそこにたどり着いた人にとってのみ、価値があるもの」
読み応えのある、価値ある一冊でした‥‥。