昨日の続きです‥。
8月30日(金)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、吉川幸次郎の
「無用の事を為(な)さずんば何をもって有限の生を遣(や)らん」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『中国文学者の畏友から近著が届き、礼状を出すとこんな返事が来たと、仏文学者の生島遼一は言う。
どんな意味づけもやがて無に帰するなら、無用の中に己を精一杯漂わせるほかないということか。
「無用」はもちろん吉川の謙遜だろううし、誰の言葉か忘れたとも言うが、
生島は、無用であろうとなかろうと自分はこれまでの生き方を続けるしかないと記す。「鴨涯日記」から。』
う~む、「無に帰するなら、無用の中に己を精一杯漂わせるほかない」ですか‥。
なんだか荘子の「無用の用」を思い起こさせる言葉です。
「人は皆、有用の用は知れども、無用の用を知るなきなり」ではないけれど、
「無用であろうとなかろうと自分はこれまでの生き方を続けるしかない」という生き様に、
私はシンパシーを感じます‥‥。