しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

連想力の欠如を心配する

昨日のこの日記では、途中で読むのを挫折した本として、

プルーストの小説「失われた時を求めて」を挙げましたが、

最後まで読み通したものの、読後の後味が悪かった本の一つに、

ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』があります。

(後味が悪かったのは、主人公が拷問に屈して体制側の思想を、その意志に反して、

最後は全面的に受け入れたのではないかと、私が理解したからです。)


昨日の朝日新聞デジタル版「日曜に想う」は、

『思い起こした一九八四年』というタイトルのコラムでしたが、

森友文書の改ざん問題に関連付けて、この小説のことが次のように書かれていました。


『 ~(略)~ あまりに露骨な書き換えに、全体主義国家の恐怖を描いた

 ジョージ・オーウェルの傑作「一九八四年」を思い起こした人もいたようだ。

 小説の主人公は「真理省記録局」という部署に勤めている。

 政府の都合と主張に合わせて過去の新聞記事を改変するのが仕事である。

 たとえば独裁者が世界情勢の見通しを語る。

 それが現実にならなかった場合には、現実に起こった通りに語ったことにして書き換える。

 つまり、すべての過去を現在の状況に合致するように変えていく。

 刊行物、映像、統計などあらゆるものを改ざんして「真実を管理」し、

 独裁者を絶対化するのである。

 財務省が書き換えを認めた翌日、さっそく本紙川柳欄に

 〈現実にあったオーウェル「真理省」〉の一句が載った。揶揄(やゆ)ではあるまい。

 おぞましい小説を地で行くような財務省への、

 むしろ悲痛な思いを込めた投句であろうと想像する。 ~(以下、略)~ 』


スミマセン‥‥。知的連想力のない私は、このコラムを読むまで、

森友文書改ざん問題と、この小説の内容をリンクさせることができませんでした。

全体主義や監視社会の恐怖を描いたという点では、

最近、「終身体制」を可能にした某国家のことを、私なんかはすぐに連想してしまいますが、

一九八四年の「真理省」と長期の「一強政権」の弊害を、一足飛びに結び付ける朝日新聞は、

目の付け所が違うのかもしれません。


ひょっとして、日本はもう既に、全体主義国家、独裁国家なのかしら??

国権の最高機関である国会が曲がりなりにも機能している以上、

私はちょっと違うと思うのだけれど‥‥。

彼岸の入りの雑感

プルーストの小説「失われた時を求めて」は、途中まで読んで挫折した本の一つですが、

なんとかこの世から去るまでには読破したいと心に決めています。いつになるか分かりませんが‥‥。

その「失われた時を求めて」が、今日の日経新聞一面コラム「春秋」で、次のように書かれていました。


プルーストの小説「失われた時を求めて」に印象的な場面がある。

 語り手が、紅茶に浸したマドレーヌの風味から少年時代を過ごした田舎町の記憶を蘇生させる挿話だ。

 ふだん気にも留めないような味覚、嗅覚、聴覚から埋もれていた過去が、奇跡のように立ち上がる。

 似たような経験を持つ人も多いだろう。作家はそれを「無意志的な記憶」と名づけた。

 「プルースト効果」と呼ぶ人もいる。ふとよみがえった遠い思い出は、私たちを幸福感で満たしたり、

 時に苦しめたりする。死に別れた人々に再び声を与え、彼らを懐かしむ。

 記憶の風化にあらがう被災地の慰霊碑のような作品である。

 きょうは彼岸の入り。この時期を境に春暖の傾向が定まり、汗ばむような日も増える。

 寺町は、先祖の墓参りをする人々でにぎわう。菩提寺までの車窓の景色、鐘の音、

 墓前に手向けた香華のにおいが、過ぎ去った時の扉を開く触媒になるのだろう。

 年齢を重ねるにつれ、墓参に心を引かれるのは、プルースト効果ゆえか。 ~(以下、略)~ 』


う~む、なるほど‥‥。

「ふだん気にも留めないような味覚、嗅覚、聴覚から埋もれていた過去が、

奇跡のように立ち上がる経験」を、「無意志的な記憶」や「プルースト効果」と呼ぶのですね‥‥。

これなら私にも似たような体験があります。

具体的にそれがいつだったか、今ここで思い出すことはできませんが、

今度、その機会が訪れたら、忘れずにメモしなければなりませんね‥‥。(苦笑)


そして今日は、コラムにも書かれているように「彼岸の入り」です。

我が家では、父と妻と娘と孫娘、そして私の親子四世代で、実家のお墓参りに行って来ました。

お線香を焚いて、母の墓前で、孫娘がこの4月から小学生になることを報告しましたが、

母が生きていれば、どんなにか孫娘の成長した姿を喜んだろうか‥‥と想像します。

そういえば母は、私の娘がまだ小学生の頃、

「〇〇ちゃんが成人した時の、振袖姿を見てみたい。それまで頑張って生きていたい‥‥。」と、

口癖のように言っていました。叶わぬ夢で終わった母の口癖を懐かしく思い出したのは、

コラムに書かれている「プルースト効果」なのかもしれません‥‥。


そういう私も、母が亡くなった時の年齢となりました。

私も、孫娘の振袖姿を見ることができるよう、頑張って生きていたいと思います。

脳科学の一端を知る

町立図書館で借りてきた『サイコパス』(中野信子著:文春新書)を読了しました。


本書を読むまで、私は「サイコパス」という言葉そのものを知りませんでした。

著者によると、もともとサイコパスとは、

連続殺人犯などの反社会的な人格を説明するために開発された診断上の概念で、

日本語では「精神病質」と訳されてきたところ、近年では、脳科学の劇的な進歩により、

サイコパスの正体 ~脳内の器質のうち、他者に対する共感性や「痛み」を認識する部分の働きが、

一般人と大きく違うこと~ が明らかになってきたそうです。


また、サイコパスの特徴としては、尊大で、自己愛と欺瞞に満ちた対人関係を築き、

共感的な感情が欠落し、衝動的で反社会的な存在であること、

無責任な生活スタイルを選択すること、などの傾向があるとのことでした。


そして、本書を読んで一番驚いたのは、歴史上、サイコパスだと思われる人物として、

織田信長毛沢東、ロシアのピョートル大帝ケネディビル・クリントン

マザー・テレサ、そして、スティーブ・ジョブスの名前が挙げられていたことです。


う~む‥‥、強烈なキャラクターの織田信長毛沢東はなんとなく分かるとして、

博愛主義者のマザー・テレサや起業家のスティーブ・ジョブスは意外でした。

著者によると、リスクをおそれず大事業をなす度量、政治家として大衆を魅了する才能~

サイコパスの特性は、一歩間違えば独裁と粛清を招いてしまうけれども、

時と場合によっては必要悪であること、

恐怖や不安を知らないサイコパス、率先して危険を顧みずに行動したサイコパスがいたからこそ、

普通の人たちが鼓舞され、追随できたこと、つまり、人類という種の繁栄には必要だったこと、

‥‥このような解説もあって、納得したというか、少し安心した次第です。


なお、本書には、自分がサイコパスかどうかについての

「セルフチェックリスト」等も示されていました。

生まれつき小心者で、なにをするにつけ不器用な私は、

サイコパスでないことは間違いなさそうですが、一方で、世間に貢献することもなさそうです。

いずれにしても、本書を読んで、脳科学の一端を知ることができました。

サイコパス (文春新書)

サイコパス (文春新書)

作者不詳のことば

今日16日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、原作詞・不詳の

『あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように

 よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい』という言葉で、

いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。


『年老いた私がときに下着を濡(ぬ)らしたりしても、

 あなたには、あなたを追い回して着替えさせたあの日のことを思い出して欲しい‥‥。

 やがて逝く人から送る人に宛てられた切なる想(おも)い。

 ポルトガル語で書かれた作者不詳の詩に、シンガー・ソングライター樋口了一が旋律をつけた曲

 「手紙~親愛なる子供たちへ~」(角智織〈すみともお〉訳詞)から。』


最初に、この「ことば」を読んだとき、私は「夫婦間」のことを言っているのかと思いました。

続く鷲田さんの解説を読んで、ようやく「親子間」のことだと分かりました。

それにしても、この「ことば」を繰り返し読むと、不思議と胸に迫るものがあります。

名言というのは、案外、著名人というよりも、

世間一般の人々が日常に発する言葉の中にあるものなのかもしれません‥‥。


さて、今日は七十二候の「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」です。「暮らしの歳時記」のHPでは、

「青虫が紋白蝶になる頃で、菜の花が咲いてまさに春本番」という解説がありました。

私は、今月4日に黒色の初蝶に出合いましたが、もうすぐ菜の花の周辺を乱れ飛ぶ、

紋白蝶の姿を見ることができるかもしれません。

いよいよ春本番です‥‥。南沙織の「春の予感」が無性に聴きたくなってきました‥‥♬

なぜ哲学なのか??

ドイツの若手哲学者マルクス・ガブリエルの

『なぜ世界は存在しないのか』という本が売れているそうです。

朝日新聞デジタル版では、哲学者の千葉雅也さんが、

昨今、出版界で哲学ブームが起きていることについて、論評を寄稿されていました。

そこでは、「なぜいま哲学なのか」が、次のように解説されていました。


フェイクニュースにまみれ、加速するグローバル経済に翻弄(ほんろう)されて

 不安定な生を送る現代人は、何か確実なものを求めている。

 一方で、科学だけでは何か足りないという漠然とした不安がある。

 科学は生活を劇的に便利にしたが、科学的分析の力によって我々はますます厳密に管理され、

 統治されるようになっている。他方で、宗教に頼るのでも足りない。

 宗教に基づく非合理的な情念は、深刻な対立を引き起こしてきた。

 おそらく現代人は、科学でも宗教でもない「別の真理の領域」を求めている。

 その候補が哲学なのだ。哲学に、この時代の不安を託そうとしているのである。

 20世紀後半の「ポスト構造主義」(フランス現代思想)の後、

 いわば「ポスト・ポスト構造主義」の段階における現代思想では、

 「実在論」が大きなテーマになっている。

 実在論とは、事物がそれ自体として存在すると認め、事物を客観的に記述できるとする立場だ。

 事物の実在は、常識的には当然のことだと思われるかもしれないが、

 実は厳密に哲学的に主張するのは簡単ではない。

 今日、そうした実在論の本質が問い直されている。』


う~む、なるほど‥‥。

科学でも宗教でもない「別の真理の領域」が哲学というのは、ストンと落ちる説明ですね‥‥。

私は、科学はどちらかといえば苦手な分野だし、かといって宗教はというと、

ちょっと身構えるところがあります。

また、解説にある「実在論」となると、私にはチンプンカンプン分かりません。


ただ、時代の不安を託す候補が哲学だとすると、私にも心当たりがあります。

最近は、池田晶子さんや神谷美恵子さんの本に、救いや慰めを求めるようになりました。

ちなみに、池田晶子さんには、『「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、

あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。』という問い掛けがあります。

「悩むな、考えよ」との教えです。ご参考までに‥‥。

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉

追記 明日は職場の送別会です。そのため、この日記はお休みの予定です。