しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

趣味は「休日の昼寝」?

こじらせていた風邪も、のど痛みや空咳が治まるなど、ようやく快方に向かいつつあります。

ここまでたどり着くのに一週間以上要しました。ふぅ~‥‥(溜息)。

また、この一週間を振り返ると、仕事をするのも辛かったです。

椅子に座っているのがやっとのことで、「労働生産性」以前の問題でした。


労働生産性」といえば、今日の日経新聞「社説」は、

『睡眠不足が招く生産性低下』というタイトルで、次のようなことが書かれていました。

『日本人の睡眠不足が深刻になっている。仕事中の居眠りなどにとどまらず、

 うつ病生活習慣病認知症のリスクが高まることもわかってきた。

 労働生産性を押し下げる一因ともなるため、

 企業は働き方改革のなかで社員の睡眠確保を優先課題の一つとすべきだ。

 経済協力開発機構(OECD)の調査では日本人の平均睡眠時間は7時間22分と、

 加盟国中で最短だ。国立精神・神経医療研究センターの研究によると、

 これは必要な睡眠時間より1時間ほど短い。

 不足の影響は蓄積し、自律神経の働きやホルモンの分泌に異常をきたす。

 気持ちを落ち着けストレスを低下させることが十分にできず、うつ病を発症しやすくなる。

 血糖値を調整するインスリンや血圧の調整にも支障が生じ、糖尿病の悪化などにつながる。

 アルツハイマー病と関係が深い、脳内にたまった不要なたんぱく質の排出機能が弱まる。

 週末の寝だめでは改善しないこともわかってきた。 ~(以下、略)~ 』


う~む、なるほど‥‥。

私はといえば、毎日午後9時30分過ぎには寝床に入り、本を数ページ読んだ後、

午後10時頃には眠りに入ります。そして翌日は、午前5時に起床。

これでいくと、睡眠時間は7時間ということになりますが、問題はその「質」にあります。

というのも、少なくとも1回、多い時には3回、夜中に目が覚めてトイレに行き、

さらに、午前3時過ぎに目覚めた場合には、そのまま朝まで眠れない日も結構あるのです。

ですから、ここ数年、「あぁ~、よく眠ったな‥」と実感できた日がほとんどありません。


加齢やそれに伴う前立腺肥大が影響しているのかもしれませんが、

若かりし頃の「爆睡」という言葉は、私には縁のないものになってしまいました。

その一方で、休日は、少しでも心と身体を休めようと思って短時間の昼寝をしますが、

これが実に気持ちがいい‥‥。(特に、炬燵に入っての昼寝です)


これから「趣味は?」と尋ねられたら、「読書」と「スポーツ観戦」のほかに、

「休日の昼寝」を付け加えようと思っています。

一時の寂寞か、万古の凄凉か

学校法人「加計学園」の、愛媛県今治市への獣医学部新設をめぐる問題で、

国会の参考人招致に臨んだ元首相秘書官の答弁に関連して、

今日の朝日新聞天声人語」には、次のようなことが書かれていました。


『 ~(前半、略)~ 「百術有りと雖(いえど)も一清(いっせい)に如(し)かず」という警句がある。

 平安王朝で能吏として知られた

 橘良基(たちばなのよしもと)の言葉だと史書『日本三代実録』にある。

 「治国の道」を問われ、百の技を駆使するよりも一つの清さが大切だと教えた。

 良基の言葉をいまこそ、霞が関のエリートたちに贈りたい。

 森友、加計の問題で国会を停滞させた理由の一つには、

 官僚たちによる公文書の改ざんや答弁のごまかしがある。』


この橘良基の言葉から、中国明代末期の洪自誠(こうじせい)の随筆集

菜根譚(さいこんたん)」に書かれた、次の一節を思い起こしました。

『道徳に棲守(せいしゅ)するは、一時に寂寞たり。 権勢に依阿(いあ)するは、万古に凄凉たり。

 達人は物外の物を観(み)、身後の身を思う。

 むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄凉を取ることなかれ。』


私の手もとにある『中国古典百言百話1~菜根譚』(吉田豊著:PHP文庫)には、

次のような解説がありました。

『道を守って生きれば孤立する。だがそれは一時のことだ。

 権力にへつらえれば居心地はよかろう。だが、そののちにくるのは永遠の孤立だ。

 めざめた人は、現世の栄達に迷わされず、はるかな理想に生きるのだと洪自誠はいう。』


いつの時代であっても、真理を言い当てる言葉には、変わらぬ重みがあります‥‥。

菜根譚―中国古典百言百話 (1) (PHP文庫)

菜根譚―中国古典百言百話 (1) (PHP文庫)

回遊魚になれなかった私‥‥

昨日9日に書かれた岡本全勝・内閣官房参与のHPを読んで、

魚の生態には、「回遊魚」のほかに「根魚(ねざかな)」というのがあることを知りました。

その内容というのは、次のようなものでした。


『魚の生態で、回遊魚と根魚(ねざかな)の違いがあります。

 回遊魚は、水温の変化やエサを追いかけて、大洋を移動します。

 マグロ、カツオ、サンマが代表例です。他方、根魚は、海底の岩礁や海草の間などに棲み、

 広範囲には動き回りません。磯釣りの対象です。根付き魚とも呼びます。

 人の仕事ぶりでも、この対比は使えます。精力的に動き回る人と、じっとしている人です。

 時と場合によりますが、動かなければならないときに、じっとしている人、遅い人は困ります。

 「不動明王」「鎌倉の大仏さん」と呼ばれます。

 情報を集める、人脈を広げるには、回遊魚でなければなりません。

 もっとも、ただ動き回っているだけでは困ります。「あいつは落ち着きがないなあ」です。

 また、帰るべき本拠地がなく、動き回っているだけでも困ります。

 専門分野を持ちながら、回遊するのが良いのでしょう。

 この点は、『明るい公務員講座 仕事の達人編』でも、強調しました。

 日頃の生活にも、例えることができます。休日に家で寝ているか、出かけるか。

 一度しかない人生なら、いろいろと見たいですよね。 ~ (以下、略) ~ 』


う~む、なるほど‥‥。耳が痛いご指摘です。

この分類でいくと、私は間違いなく「根魚」で、「不動明王」「鎌倉の大仏さん」に該当します。

さらに、日常の生活でも「休日に家で寝ている」タイプになります。

「生きるのが下手な小心者」といえばそれまでなのですが、生まれ持った性格のようにも思います。

「一度しかない人生」というのは、自分なりに理解しているつもりなのですが‥‥‥。

「積極的な人生」を歩んでいる人が羨ましいです。

一般論とは別の世界?

二十四節気の「立夏」も過ぎ、七十二候では「蛙始めて鳴く(5/5~5/10)」頃だというのに、

ここ数日、気温は低めで肌寒く、我が家の近辺ではカエルも一向に鳴く気配がありません。

そして、私はといえば、ゴールデンウィーク後半に引いた風邪がいまだに抜けきらず、

体調が芳しくない状態が続いています。加齢とともに身体の抵抗力がなくなっていこともあるのでしょうが、

それよりも、普段から身体を鍛えていないのが遠因なのではないかと、自分なりに解釈しています。(反省)


さて、今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、イラストレーター・山藤章二さんの

『夫婦には一般論とは別の世界があるのだ。』という言葉で、

いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。


『似合いのペアかと思えばすぐに別れる。相性が悪そうでも何十年と保(も)つ。

 仲裁の労をとろうものならとんだ「三枚目」になると、イラストレーターは苦笑い。

 が、夫婦が一般論で説けないならそこに生まれた子にも一般論は無用だ。これは愉快な道理。

 でもそこからは、自己のありようは育った“環境”のせいにできないとの厳しい結論も出てこよう。

 「はじめての八十歳」から。』


う~む‥‥‥。(沈黙)

今日の鷲田さんの解説をどのように理解したらいいのでしょう?

「夫婦が一般論で説けないならそこに生まれた子にも一般論は無用だ。」というのは、

何となく雰囲気で分かりますが、

そこから次の、「でもそこからは、自己のありようは育った“環境”のせいにできない

との厳しい結論も出てこよう。」にどう結びつくのか、私にはイマイチ理解できませんでした。


それはさておき、「相性が悪そうでも何十年と保(も)つ。」というのは、

まさに私たち夫婦を指しているみたいです。(苦笑)

「伝統」について考える

一昨日の朝日新聞デジタル版「日曜に想う」では、大野博人編集委員が、

『「伝統」が発明される時代』というタイトルの記事で、次のようなことを述べられていました。


『今再び、伝統を言いつのる時代が来ているようだ。

 日本では、憲法に日本の伝統的価値観を盛り込もうという主張が目立つ。

 2006年に改正された教育基本法は伝統を「継承」したり「尊重」したりする教育の推進をうたっている。

 ほかの国でも、自国の誇りを取り戻せとばかりに伝統を強調する言説が広がる。

 おりしもグローバル化少子高齢化で社会は急激な変化にさらされている。

 不安が消えない人々に向けて政治家や言論人がせっせと伝統を発明しているように見える。

 「夫婦別姓は伝統を壊す」「家族で助け合うのが伝統」‥‥。

  「伝統って何でも入れられる箱みたいなもの」と、

 トンプソン教授(注:早稲田大学スポーツ科学学術院教授)は注意を促す。

 「伝統といえば、人は守らなければと思ってしまいがちです」

 伝統というだけで、なにかを説明したことにはならない。

 伝統といわれただけで、恐れ入るわけにはいかない。』


う~む、なるほど‥‥。

私もこれまで「伝統の早慶戦」とか「伝統の早明戦」など、「伝統」という言葉を、

その意味をあまり考えることなく使ってきたように思います。

ちなみに、記事では、英国の歴史家、エリック・ホブズボームらが

1983年に出した研究書「創られた伝統」で打ち出した、次のような考え方が紹介されていました。

『伝統とされるものごとは、古いと言われるし、そう見える。

 しかし、その起源がかなり最近であることはしばしばで、ときには発明されることもある‥‥。』


はぃ、確かに「夫婦別姓は伝統を壊す」や「家族で助け合うのが伝統」の場合の「伝統」は、

ちょっと危なかしいところはあるとは思うけれど、伝統という言葉にあまり過敏になるのはどうなのでしょう?

「古いもの」の基準が、人によって曖昧さがあることは否めないものの、

それが「今でも続いている」ことに敬意を払うのは、それはそれで大切な価値観のように私は思います。