しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

小春日和に冬支度

ラグビー日本代表ニュージーランド代表との試合をテレビで観戦しました。


う~む‥‥。(沈黙) やっぱりオールブラックスは半端なく強かったです。

相手のミスを逃さず、瞬時にカウンター攻撃する、そのスピードとテクニックに、

ただただ脱帽するばかりです。

でも、日本代表は、この世界最強のチームから5つのトライを奪ったのですから、大健闘したと思います。

とりわけ、ウィングの福岡選手やフランカーの姫野選手は、随所に好プレーを見せてくれました。

スタンドオフの田村選手を含め、彼らは世界レベルで十分通用する日本人選手ではないでしょうか‥?

来年のW杯での日本代表の活躍が、今からとても楽しみです。


さて、話は変わりますが、小春日和の今日、「こたつ」を出すことにしました。

一言で「出す」とは言っても、これがなかなか大変な作業となりました。

というのも、テーブルの上に積んであった本をいったん片付けて、再び元の位置に戻す必要があるからです。

この際に、数十冊の本と雑誌を処分することにして、ようやく冬支度が完了しました。

テーブルの一角には、作業スペースも確保することができ、今年は年賀状がこたつで書けそうです。

そして何よりも、「こたつで昼寝」という、私にとっての「至福のひと時」を味わうことができます。

f:id:miyoshi_s:20181103103837j:plainf:id:miyoshi_s:20181103103914j:plain

名は体を表す

昨日の日経新聞に「新元号は漢文古典から~意味や読みやすさ重視」

という見出しの記事が掲載されていました。記事冒頭には次のようなことが書かれていました。


『政府は2019年5月1日に切り替わる新しい元号の選定をめぐり「平成」への改元を踏まえ、

 漢文で書かれた漢籍を出典にする方針だ。

 前例を踏襲することで保守派らの反発を避け、新元号への円滑な移行をめざす。

 改元の1カ月前の4月1日の公表を想定して準備を進めており、

 公表前には有識者懇談会を開いて意見を聞く。』


また、元号選定の条件などが、次のように分かりやすく整理されていました。

1 条件 → 漢字2文字でよい意味を持つ 読みやすく、書きやすい

2 出典 → 史記四書五経など、全て漢文で書かれた書籍(漢籍)

3 手続き → 有識者若干名が複数の候補を提出 公表前に有識者懇談会を開催


このほかに記事では、既存の元号との混乱を避けるため、新元号のアルファベットの頭文字は

M(明治)T(大正)S(昭和)H(平成)の4文字を避ける方向であることが書かれていました。


う~む‥‥。新元号は、いったいどんな2文字になるのかしら? とても関心があります。

いろいろと想像してみたけれど、いかんせん、私には漢籍の知識がまったくありません。(トホホ)

安岡正篤先生がご存命だったら、どんな元号を考えられたのでしょうね‥‥。


「平成」の30年は、バブル崩壊とその後の経済停滞などがあって、

日本にとっては「失われた○○年」ともいわれたので、

今度こそは、「名は体を表す」元号になれば‥‥と切に願っています。

「自然体」は難しい

久しぶりに、経済コラムニスト・大江英樹さんの「定年楽園への扉」を、

今日の日経新聞デジタル版で読みました。

今回のタイトルは『自由楽しんでこそ定年生活~「べき論」には縛られない』というタイトルで、

次のようなことが書かれていました。


・最近、世の中には定年や老後について、

 その考え方や対策などについて書かれた本がたくさん出ています。いわゆる「定年本」です。

 読んでいて私は共通点があることに気付きました。

 それは「老後の生活はこうしなくてはならない」とか

 「定年後はこうあるべきだ」といった論調が目立つことです。


・何を仕事にするのか人によって様々であるように、

 定年後の生活の仕方も人によって違うのは当然です。

 あるやり方がその人に合っていたとしても、それが全ての人に合うわけではありません。


・では、一体なぜ多くの人がこうした「べき論」にとらわれるのでしょうか。

 私が考える理由は2つあります。1つ目は定年後の生活は初めての経験だということです。

 経験したことがないことに対しては誰でも不安な気持ちになるのは当たり前ですから、

 何かにすがりたくなるものです。

 結果として、誰かの成功体験を信じて自分も同じようにしたいと思いたくなります。

 2つ目は自分がどんな生活をしたいか、

 何をやりたいのかを全くイメージしないまま定年を迎えてしまうことです。

 実際、多くの人がこのパターンに陥りがちです。


・「べき論」に縛られてしまうと、本来はやりたくないことでもやらざるを得ず、

 無理をしてしまいます。

 そんな生活は楽しくないし、満足のいくシニアライフになるはずがありません。


う~む‥‥。(沈黙) 

このなかの、「自分がどんな生活をしたいか、

何をやりたいのかを全くイメージしないまま定年を迎えてしまう」という箇所は、

まるで私のことを書いていただいているみたいです。


大江さんは、「あくまでも自然体で臨めばいいのです。定年後の何よりの楽しみは

人に指図されることなく、自由にできるようになったということなのですから。」

とも述べられていました。


「自然体」ですか‥‥。でも、私には、これが意外と難しいのです・

あぁ‥‥、早くこのような「境遇」と「境地」になりたいなぁ~。

日本型「連帯責任」を考える

今日の朝日新聞デジタル版「耕論」は、「連帯責任を考える」というテーマでした。

誰かが問題を起こしたとき、仲間も責任を問われ、

罰せられることがある連帯責任について、その功罪を見つめ直してみるという内容で、

いつものように3人の有識者の方が持論を展開されていましたが、

私はそのなかでも、菊澤研宗・慶応義塾大学教授のお考えに興味を惹かれました。

少々長くなりますが、その全文を引用させていただきます。


『企業経営の現場、働く現場も連帯責任と無縁ではありません。それがどんな効果を生むのか。

 制度論的に考えると問題が起こる前と後とで、がらりと様相が変わる点が特徴的です。

 うまくいっている時は、各自が他人に迷惑をかけないように努力します。

 相互に点検し、協力し合って失敗を減らすので、効率はよくなる。

 そうした点は、この制度のプラス面と言えるでしょう。

 でも、もしだれかがミスをすれば、全員が罰を受ける。

 失敗していない仲間にも被害が及び、組織は危機に陥ります。

 それを回避するため、組織的な隠蔽(いんぺい)が発生します。

 そうなると、連帯責任はあしき制度になりさがる。

 なぜそうなるのか。メンバーが機械のように損得を計算するからです。

 ミスを公表して全員が罰せられるよりも、隠蔽した方が計算上は得だからです。

 自分を取り巻く外部の状況を考慮し、損得に基づく行動は自分以外に原因があるので他律的と呼ばれます。

 こんな集団に、みなで責任を負う仕組みを持ち込むと、危険だということです。

 大事なことは人間力を発揮することです。損得を計算した上で、主体的に価値を判断する必要がある。

 どんな組織でも、まずリーダーが目標やルールをきちんと説明し、

 損得に加えて正しいかどうか、好きか嫌いか、メンバーに多面的に判断させるのです。

 メンバーが主体的に受け入れていれば、たとえ目標やルールに不備があっても、

 それを守る責任が各自に生じる。

 ミスが起きても隠蔽することなく公表し、あえて罰を受ける覚悟ができるでしょう。

 企業も同じです。長い歴史を持つ会社には、給与が高いからという打算だけでなく、

 「この会社が好き」という社員が少なくありません。

 そうした社員は、会社が赤字になっても退職することなく、

 むしろ一致団結して会社のために頑張るでしょう。連帯責任は日本的な仕組みかもしれないですね。

 個人主義的な欧米から見れば、異質に映るでしょう。

 政治学的視点に立てば、連帯責任は個人を否定し、全体主義的なので「悪」に見えるかもしれません。

 でも悪い面ばかりではないからこそ淘汰(とうた)されずに残っているのだと思います。

 集団の中で働き、ときには自己を犠牲にし、ときには一人のミスのために全員で耐える。

 非合理的に見えるかもしれません。しかし、そこに機械にはない人間的な魅力があり、美学がある。

 この仕組みがプラスに働くには、リーダーはもとよりメンバー一人ひとりが即物的な損得計算だけではなく、

 人間として主体的に価値判断し、その責任を取る自律的な存在であることが不可欠です。

 とても興味深いテーマですね。』


う~む‥‥。(沈黙)

「組織的な隠蔽」は、本当にメンバーの「損得計算」に基づく行動なのでしょうか?

うまく言えないけれど、ちょっと違和感があります。

私は、個人の「損得計算」というよりも、組織としての「その場の雰囲気」や、

誰の責任かが明確に分からないような「責任の曖昧さ」にあるように思うのですが‥‥。


それは別として、この記述のなかの「集団の中で働き、ときには自己を犠牲にし、

ときには一人のミスのために全員で耐える。非合理的に見えるかもしれません。

しかし、そこに機械にはない人間的な魅力があり、美学がある。」という箇所を読んで、

ふと、清武英利さんの『しんがり山一証券最後の12人』(講談社+α文庫)のことを思い起こしました。

日本型組織には、「責任の曖昧さ」と「自己犠牲精神」が同居しているような気がします。

論を耕す

昨日29日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、明治の思想家・中江兆民

『俗論は頑論(がんろん)よりも害あり。』という言葉で、

いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。


『憤懣(ふんまん)の溜(た)まる社会では、

 「極端と極端とを並べて見せる」性急で頑(かたく)なな論がはびこる。

 これらは他山の石としうるが、厄介なのは俗論のほう。

 尖(とが)らない論点は温和でいかにも正論に映るが、その耳あたりのよさが批判力を鈍らせ、

 大勢を見誤らせる。そして人心が議論に倦(う)めば、社会は内部から蝕(むしば)まれてゆく。

 だから論を耕せと、明治の思想家は警(いまし)めた。「中江兆民評論集」から。』


う~む、なるほど‥‥。とても含蓄に富む言葉だと思います。

それはそうと、「中江兆民ってどんな人だったっけ‥?」と、ウィキペディアで調べると、

『日本の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)。

 フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して

 自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、東洋のルソーと評される。』との解説がありました。

はぃ‥、そうでした。歴史の教科書で習った歴史上の人物の記憶が、今よみがえりました。


折も折、昨日からは、臨時国会与野党論戦が始まりました。

「俗論」、「頑論」ではなく、論を耕す「耕論」を期待したいと思います。