しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

ますます昭和は遠くに‥‥

作詞家のなかにし礼さんが、今月23日に、82歳でお亡くなりになったそうです。

今日の日経新聞一面コラム「春秋」と朝日新聞一面コラム「天声人語」には、

それぞれ、次のような「哀悼のコラム」が書かれていました。


『札幌に赴任していたとき、週末を小樽で過ごした。

 日本海を一望する丘に立つ小樽商科大学は、ありがたいことに市民に図書館を開放していた。

 のんびり本を読んで、飽きたら「ニシン御殿」などの旧跡を散策した。

 海の幸だけでなく鶏の半身揚げという名物も美味だ。

 足しげく通うきっかけになったのが、

 在任中の1998年に刊行された小樽を舞台にした悲しくも美しい物語だった。

 なかにし礼さんの自伝的小説「兄弟」。戦後、中国から引き揚げてきた家族は復員した兄と当地で暮らす。

 特攻隊の生き残りの兄は、一獲千金を夢みて家を担保に借金し、ニシン漁に乗り出すのだが‥‥。

 直木賞作家の栄誉も手にした作詞家の訃報に接し、真冬の小樽のにび色の海の匂いがよみがえった。

 「あれからニシンは どこへいったやら」と、北原ミレイが歌った「石狩挽歌」は、

 なかにしさんの少年期の体験と、破天荒な兄への愛憎入り交じる複雑な感情が昇華した作品である。

 北の夜の酒場で、何度聞いたことか。

 「時には娼婦のように」も売れた。「不道徳な歌を書く自由も平和の象徴」と語った。

 旧ソ連の侵攻から逃れた際の光景を、幼い胸に刻んだ。

 クレージーキャッツに提供した陽気な酒宴の歌にも、戦友を悼む一節がある。

 「戦争を知らない人間は、半分は子供である」。大岡昇平の言葉をよく引いた。その詩魂を忘れない。』


『1970年の紅白歌合戦は、なかにし礼さんの独壇場となった。

 「手紙」「あなたならどうする」「今日でお別れ」‥‥。作詞した5曲が年の瀬の街にこだました。

 〈海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ〉。

 75年のヒット曲「石狩挽歌(ばんか)」を初めて聞いたとき、詞の難解さに耳を奪われる。

 北海道の漁業の衰退が主題とわかり、社会性の高さにうなった。

 かと思うと、男女のもつれた恋情を微細に描く歌詞も多く、少年だった私はテレビの前でドギマギした。

 高度成長期の歌謡界をリードした作詞家が今週、82歳で亡くなった。

 シャンソンの訳から出発し、演歌やアニメの主題歌も含め、4千を超す曲を世に出した。

 直木賞作家でもあった。旧満州に生まれ、6歳の夏に終戦を迎えた。

 ソ連軍の侵攻を受け、母や姉とともに逃げまどう。

 いつまでも帰国がかなわず、母国に見放されたと痛感。国家の酷薄さを身をもって知った。

 そうした経験が、なかにし流の個人主義と平和主義を生んだ。

 「エロスがなければ平和はない。戦争がないからこそ軟派で不良な時間を楽しめる」。

 歌詞や私生活がときに議論を呼んでも意に介さなかった。

 いまの憲法を「世界に誇れる芸術」と評し、

 自らの創作の原動力は「戦争への甘美なる復讐(ふくしゅう)」だと語った。

 ふりかえれば今年は、戦後の歌謡界で輝く巨星が相次いで旅立った。

 筒美京平中村泰士、そして、なかにし礼。何歳になっても彼らが残した名曲にドギマギし続けたい。』


私は、その教養、その価値観、その人間性といった、コラムニスト氏の真価は、

「追悼のコラム」においてこそ、もっとも発揮されるものだと、かねてから思っています。

どちらも秀逸なコラムだと思いますが、

どちらかというと、前者の日経新聞社のコラムニスト氏に、そうした資質を感じた次第です‥‥。


今年は筒美京平さん、服部克久さん、中村泰士さんと、

昭和歌謡の作曲家が、相次いでお亡くなりになりました。

そして、今回のなかにし礼さんの訃報‥‥。私の心の支えである「昭和」は、ますます遠くなる一方です。