今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、作詞家・阿久悠さんの
「もう少し人間がチャーミングに見える言葉が存在していいはずだし、
存在していた時代もある。」という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『「書き下ろし歌謡曲」(1997年)から。
「乾いた必要な言葉」さえあれば人間なんて結構生きていけると
みなが証明しあっているような時代になじめないと、作詞家は言う。
わずかなりともカッコよくありたいという心根が言葉に艶(つや)を与える。
現代人は「等身大」をもて囃(はや)しながら、じつは「自分の大きさを見失っている」のではないかと。』
う~む、なるほど‥‥。
「わずかなりともカッコよくありたいという心根が言葉に艶を与える。」ですか‥。
なんとなく言葉の意味するところは理解できます。
でも、阿久悠さんが言われる「人間がチャーミングに見える言葉が存在していた時代」とは、
一体いつのことなのでしょう‥‥?
私は、たぶん、「明日は今日よりも良くなる」と信じることができた、
高度経済成長時代(概ね昭和30年から昭和48年)、
つまりは、「私が生まれてから高校生までの間」だと思うのだけれど‥‥。