昨日の続きです‥。
3月14日(火)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、スーザン・ソンタグの
「言語は言語を阻止するために、沈黙を表現するために、使うことができるのだ。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『芸術とは人間の「自己表現」だという根強い神話がある。
この神話が、沈黙を、言い表せないものというふうに凡庸に神秘化してきたと、米国の作家・批評家は言う。
が、沈黙をより深く表現するのも言語。
そのことも含めて、さまざまな〈沈黙〉で抵抗してきた現代芸術家らの試みを読むべきだと。
「ラディカルな意志のスタイルズ」(完全版、管啓次郎・波戸岡景太訳)から。』
う~む‥‥。(沈黙) この沈黙をどのようにして言語で表現するのかしら‥?
そして、3月15日(水)の同紙一面コラム「天声人語」は、大江健三郎さんの逝去を悼む内容でしたが、
その冒頭には、次のようなことが書かれていました。
『「知る」と「分かる」はどう違うのか。作家の大江健三郎さんは「知る」から「分かる」に進むと、
自分で知識を使いこなせるようになると定義した。
その先には「悟る」があって、まったく新しい発想が生まれる、と。‥‥』
はぃ、「知る」と「分かる」と「悟る」の違いを、よく覚えておこうと思います‥‥。