今日は放送大学愛媛学習センターに行って、新しい学生証の交付を受けてきました。
今年の4月から科目履修生として「哲学」の講義を受けてきましたが、半年間の在籍期間が切れたので、
今度は在籍期間が1年間の選科履修生として再入学し、受講科目も「金融経済関係」を選択しました。
学生証を受け取った後、愛媛大学城北キャンパス内をブラブラと歩きました。
色付きつつあるモミジ(たぶんそうだと思います)の巨木に圧倒された次第です。
さて、昨日の続きです‥。
9月29日(金)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、長田弘さんの
「言葉を馴れ馴れしくつかうことが、言葉に親しむということなのではありません」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『言葉は伝えたいことを伝えるのではなく、語ろうにもどうしてもそこに残ってしまうものを探りだし、
象(かたど)るものだと詩人は言う。
「うまく語れない、言葉がとどかない、たがいにわかりあえない」ところから出発し、
自分の心の中に見つけた問題を最後まで「切り捨てない」ことが大切で、
そのことが「言葉との付きあい方の深さ決める」のだと。「読書からはじまる」から。』
はぃ、コメントの言葉が見つからないぐらい、とっても重たい「ことば」とその解説でした。
言葉との付きあい方は、ことほどさように難しいものなのですね‥‥。