今日は町立図書館に行って、10月15日(日)から21日(土)までの
朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。
この一週間で印象に残ったのは16日(月)、荒井裕樹さんの
「困っている人たちが言わないと議論ははじまらない。
だから、少数者からの問題提起はすごく重要なんです。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『マジョリティ/マイノリティは人数の多寡ではなく、むしろ「社会の中での居心地のよさの度合い」をいう。
つまり場を統べ、仕切る側がマジョリティなのだと、文学と障害者文化を専門とする研究者は言う。
それゆえ、苦しみ、悔しい思いをする側から声が上がらなければ社会の改善も前に進まないと。
「障害者ってだれのこと?」から。』
う~む、なるほど‥‥。
マジョリティ/マイノリティは「社会の中での居心地のよさの度合い」ですか‥。
そういう考え方もあるのですね。
そして、「少数者の側から声を上げる、問題提起する」のは、とても勇気のいることだと思います。
次に、18日(水)の同紙一面コラム「天声人語」は、谷村新司さんを追悼する内容で、
次のようなことが書かれていました。
『‥‥我が幼心をふり返れば、男の色気というものを初めて感じたのは、谷村さんの歌だった覚えがある。
力強く、ときに哀愁たっぷりに。「遠くで汽笛を聴きながら」「いい日旅立ち」などの名曲を残して、
谷村さんが74歳で逝ってしまった。
星のすばるはこの時期、真夜中に南中する。
青白くかすんで見えるのは、天の乙女が悲しみに泣きぬれているからだ、という。
〈我は行く。さらば昴よ〉。星が流れた。』
はぃ、「逝ってしまった」という表現に、コラムニスト氏の哀悼の気持ちが滲み出ていると思いました。
なお、コラムでは、石川啄木の歌集「悲しき玩具」の一節が引用されていました。
『眼閉づれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあけるかな。』
ちなみに、この前の冒頭の一節は、
『呼吸(いき)すれば、胸の中(うち)にて鳴る音あり。凩(こがらし)よりもさびしきその音』。