しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

捨てられない人

今月25日の日経新聞電子版「週末スキルアップ塾」は、

『暮らしや仕事を「豊か」にする片づけ方』というタイトルで、

その内容は、ミリオンセラー『「捨てる!」技術』の著者、

辰巳渚さんへのインタビュー記事でした。

このコーナーはとても役に立つ記事が多いので、毎週末を楽しみにしています。

 

記事では、片づける前に知っておきたい「基本の心得3カ条」が、

次のように分かりやすく整理されていました。

・心得その1 「片づけること」に、こだわりすぎない。 

  ⇒ 「きれいに片づいている状態」が重要なわけではない。   

    「仕事や暮らしがスムーズに回っているか」が重要。

・心得その2 「モノ」を使いこなす

  ⇒ 「暮らし」(日常生活や仕事)は、モノが使われながら回る

     モノを「使う」ことを意識して、片づけを考えよう。

・心得その3 「過去」を引きずらない 

  ⇒ 「やってきたこと」を大事にする「積み上げ式」の意識が

     強い人ほど、「捨てられない人」になる。

 

このうち、「心得その3」については、

辰巳さんの次のような解説があって、読んでドキリとしました。

『「これまでにやってきたこと」を大事にしすぎる人は、

 モノが捨てられない傾向があります。

 定年退職後でも自宅の書斎に仕事の本が山積みになっている人のように、

 「過去に得たモノ」を捨てられないのです。

 モノでもスキルでも、ピラミッドを作るかのように「積み上げ式」で考えると、

 「捨てる(一部を抜き取る)」ことが怖くなります。

 基本的に世の中は常に動いていて、自分も常に変化・成長していると考える。

 「過去」を引きずらないようにすれば、潔く捨てられるようになります。』

 

う~む、まいったな……。

私の家には「書斎」というスペースがないため、

自宅1階の来客用の和室が私の「部屋」件「書斎」のようになっています。

妻からは、いつも要らないモノを捨てるように督促されていますが、

小心者の私は、捨てることが怖くて、どんどん本や書類が溜まっていきます。

 

ということで、私は、辰巳さんが指摘する、典型的な「過去を引きずる人」で、

なおかつ、「捨てられない人」であることを自覚した次第です。

あぁ~(ため息)、私も潔い人間になりたい……。

 

ところで、明日は、有難いことに、

かつての上司との飲み会があります。そのため、この日記もお休みします。

 

なかなか見えないもの

我が家の前には、造成された空き地があって、

今日も近所の子どもたち数人が、元気にサッカー遊びをしていました。

子どもたちの歓声を部屋から聴いていると、こちらも元気をもらいそうです。

 

さて、ビデオに録画していたNHKスペシャ

『見えない「貧困」~未来を奪われる子どもたち~』を観ました。

日本では6人に1人の子どもが相対的貧困状態に置かれていることは、

以前から新聞報道などを通じて知っていましたが、

それがどのような状況なのかを、今回の番組で少しでも知ることができました。

 

番組では、東京都大田区などの自治体が大規模調査を実施して、

世帯収入だけでは見えない貧困の実態を可視化し、

対策につなげようとしている事例が紹介されていました。

 

その調査からは、貧困を見えにくくしていた要因も浮かび上がりつつあって、

番組HPでは次の3点を指摘していました。

1つ目は、ファストファッションや格安スマホなど

物質的な豊かさによって粉飾されること。

2つ目は、高校生のアルバイトなど子ども達が家計の支え手になっていること。

3つ目は、本人が貧困を隠すために、教師や周囲の大人が気づきにくいこと。

 

番組のなかでは、アルバイトを掛け持ちして家計を支える女子高校生や、

進学する意欲と能力がありながら、奨学金や教育ローンなど

進学費用の工面に悩んでいる女子高校生の姿が、私には強く印象に残りました。

 

そして、こうした相対的貧困状態を放置すれば、

将来の社会的損失は40兆円に上るという試算もあるとのことで、

番組を見終わった後は、なんだかとてもやるせない気持ちになりました。

 

ところで、作家・伊集院静さんの名言に、

『人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている』という言葉があり、

この日記でも引用させていただいたことがありますが、

「見えない貧困」という事情のなかで「平然と生きていく」には、

個人として限界があるのではないかと思います。

 

国や自治体も、給付型奨学金の創設などの対策に乗り出すようですが、

日本の将来を担う子どもたちが、

未来に希望を持てない社会だけは次世代に残さないように、

社会全体で取り組んでいく必要性を痛感した次第です。

 

 

「猫の日」にまつわる雑感

今週の勤務は変則的で、今日と明日は仕事はお休み、

その代わりに今度の日曜日が出勤です。

 

さて、一昨日の22日は「猫の日」でした。

2月22日を猫の鳴き声「ニャン・ニャン・ニャン」と

もじって決められた日とのことで、

同日付けの朝日新聞天声人語」は、冒頭

恋の季節がやってきた。ヒトではなくネコの話である。

「春の猫」「うかれ猫」「猫の妻」「猫さかる」。

恋に突き動かされるさまをとらえた季語を並べてみると、

不思議と寒さがやわらぐ気がする。

俳人たちもこの時期のネコたちに魅せられてきた。』という文章で始まり、

その猫について、次のような俳句が紹介されていました。

 

・麦飯に やつるる恋か 猫の妻 (芭蕉)

・まとうどな 犬踏みつけて 猫の恋 (芭蕉)

・おそろしや 石垣崩す 猫の恋 (子規)

・うらやまし 思いきる時 猫の恋 (越智越人)

・恋猫や 世界を敵に まわしても (大木あまり)

 

また、同日付けの愛媛新聞「季のうた」は、

永田耕衣の『恋猫の 恋する猫で 押し通す』という俳句で、

俳人・土肥あき子さんの次のような解説がありました。

 

『恋のシーズンの雄猫は、見境のない鳴き声で相手を誘い、また恋敵を威嚇する。

 静かな夜をつんざく行為にはへきえきするが、ひそかに隠すことを習いとし、

 複雑な背景をあやなす人間の恋を知っている身としては、

 本能のみに従って横行する猫に、うらやましさもちらりとのぞく。

 <恋>という高尚な看板をもらった猫は、

 今夜も声を限りに妻を探して、人間の迷惑など知るよしもなく、

 放歌高吟を尽くすのだろう。』

 

ところで、猫といえば、娘がよちよち歩きの頃、

ほとんど我が家に住み着いた、まだら模様の野良猫がいました。

その猫は小さい娘が近づいても逃げようともせず、

逆に、私たち家族の姿を見つけると、

どこからともなくやってきて、エサをねだる愛嬌な仕草をしていました。

身体が衰えた晩年は、見ていて痛々しくもありましたが、

その最期も、我が家の庭の隅っこで横たわっていました。

今も、我が家の塀と庭は、ご近所の飼い猫の散歩コースになっています。

 

そして、その我が家の庭には、ご覧のとおり、

ヒマラヤユキノシタとランに花が咲いています。

弥生三月を間近に控え、春が目に見えるかたちで近づいています。

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言葉を愛した作曲家

今日は風がとても強い一日でした。

こんな日のバイク通勤は、強風で横転しそうで、恐怖に近いものがあります。

 

さて、今月19日の産経新聞産経抄」は、

作曲家・船村徹さんの追悼コラムでした。

84歳で他界した船村さんは言葉を愛した人でもあったとのことで、

コラムでは船村さんの、次のような言葉が紹介されていました。

 

 ・作曲家は、人間のひだの中をはいつくばっているような生業(なりわい)だ。

 ・歌は言葉が命。歌詞を何百回も読み込め。メロディーはおのずと生まれる。

 ・演歌、歌謡曲は日本人の血液だ。


船村さんが作曲された数多い曲の中で、

私がとりわけ好きなのは「矢切の渡し」です。

それも、細川たかしさんが歌う「矢切の渡し」ではなく、

ちあきなおみさんが歌う「矢切の渡し」をこよなく愛しています。

ちなみに、ちあきなおみさんが歌う船村さんの曲には、

「紅とんぼ」という、何回聴いても感動する名曲もあります。

 

なお、コラム本文には、先ほどの船村さんの言葉のほかに、

コラムニストの次のような名文がありました。

 ・大衆の中に机を置き、寝床を敷き、人生の機微、哀感を五線紙に乗せる。

  一つとして無駄な音符はなかったろう。

  5500曲を超える作品に、この人の香りがしみ込んでいる。

 ・「演歌、歌謡曲は日本人の血液だ。」も氏の言葉だった。

  供養はいるまい。人々に歌い継がれてゆく、幸せな曲たちではないか。

 

「演歌、歌謡曲が日本人の血液」だとしたら、

私の血液の中にも、その「DNA」がしっかりと流れています。

私は、懐かしいフォークやニューミュージックが大好きだけれど、

演歌や歌謡曲にも、「日本人に生まれてきてよかった」と思うほど、

底知れぬ魅力を感じています……。

現状追認の無限ループ

今月19日の朝日新聞デジタル版「政治断簡」に掲載された

『嗤われたら笑い返せ』というコラムの中に、

政治学者・丸山真男の言葉を引用した、次のような記述がありました。

 

『嗤われるのは、数の力という「現実」に抗し、理念や理想を語る者。

 所与の現実から最大限の利益を得ることに腐心する「現実主義者」にとって、

 理想なんて1円にもならないキレイゴトだから。しかし……。現実ってなんだ?

 「現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。

 現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません」

 (丸山真男『「現実」主義の陥穽』)

 そのように捉えられた現実は、容易に「仕方がない」に転化する。

 こうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に食い入り、

 日本の「現実」を泥沼に追い込んだか。丸山はこう、言葉を継ぐ。

 「ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのも

 まさにこうした『現実』観ではなかったでしょうか」

 既成事実への屈服が、さらなる屈服を生む。

 対米追従は仕方ない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない……。

 現状追認の無限ループ、そんな「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?

 嗤われたら笑い返せ。現実は「可能性の束」だ。

 私もあなたも一筋の可能性を手に、この世に生まれてきたのだ。』

 

このコラムそのものは、トランプ大統領と安倍首相の二人が、

「嗤(わら)う」が板についている点で「類」だということが書かれたものでしたが、

「現実たれということは、既成事実に屈服せよということにほかならない」

という丸山氏の言葉が、妙に頭から離れませんでした。

 

でも、果たして「既成事実という現実」は、

容易に「仕方がない」に転化するものなのでしょうか?

そこのところの実感が湧きません……。

なお、念のため、丸山真男の『「現実」主義の陥穽』の原文は、

『現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき

それは容易に諦観に転化します。』と限定的に書かれています。

『現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、

他面で日々造られて行くもの』という、

「現実のプラスティックな面がある」ことが記事では書かれていません。

 

そして、コラムのタイトルにある「嗤う」と「笑う」の相違。

ネットの辞書で調べると、「笑う」は「うれしさなどで顔を柔らげ声を出す意」で、

「嗤う」は「あざける。嘲笑するの意」という解説がありました。

 

この違いを知って、また考え込んでしまいました。

「嗤われたら笑い返す」ことで果たして済まされるものなのでしょうか?

私には、イマイチ、記事の意図するところが理解できませんでした。

ひょっとしたら、この私が、

「現状追認の無限ループ」に陥っているのかもしれません。