久々に「堅め」の日記です。
昨日(23日)の日経新聞「経済教室」は、
中西寛・京都大学教授の「集団的自衛権の論点㊤〜国際協力、安全保障の基本」でした。
中西教授は、
政府がこれまで日本国憲法上、行使できないとしてきた集団的自衛権をめぐる議論は、
法的解釈の問題も絡んで議論が錯綜しがちであるけれども、
基本に立ち戻って考える必要があるとして、次のように述べられています。
『そもそも現在の世界で個別的自衛権は発動するけれども、
集団的自衛権は発動しないという方針を採っている国は恐らくない。
また、国連の制裁措置としての武力行使に
あらかじめ加わらないと宣言している国連加盟国もないだろう。
もちろん現実に同盟を持たない国や、他国を助けるために武力を発動しない国はいくらもある。
だが、あらかじめこうしたことを政策の選択肢から排除している国は
日本以外にないだろう。』
ではなぜ日本は集団的自衛権を行使しないという立場を採ってきたのか。
中西教授はその理由として、
「憲法9条の存在」と「軍事的なもの」の二つが考えられると指摘されています。
「憲法9条の存在」は、私にもおおむね理解できます。
もうひとつの「軍事的なもの」とは、
冷戦終了後は、グローバルな核抑止構造が終焉するなど状況が変化し、
現代世界では、通常兵力を基調とした国際協力が
地域的にもグローバルにも「安全保障の標準」となった、と中西教授は述べられています。
そして次の一節が、この論考の中で重要な箇所だと思います。
『この状況(通常兵力を基調とした国際協力)は世界的にも大きな変化だが、
日本にとってはとりわけ大きな発想の転換を要する事態である。
なぜなら他国との協力の中で自国の安全保障を考えるという発想は、
戦前戦後を通じて日本人にとって身近とはいえない考え方だったからである。』
そうなんですよね。
だって、中西教授が指摘されているように、
現代では「個別的」と「集団的」の自衛権を区別して扱うこと自体が、
世界のスタンダードではないのですから…。
最後に中西教授は、国民の気持ちを代弁して、ズバリ次のように述べられています。
『集団的自衛権の行使に対する世論の懐疑も、
結局はアメリカからの要請があった時に
日本政府が独自の判断で断ることができないのではないかという
疑念から来るものであろう。』
いざ武力行使という時には、政治や政府の判断はあてにならないということでしょうか?
第二次世界大戦敗戦のトラウマを背負っているような気もします。