『天人~深代惇郎と新聞の時代』(後藤正治著:講談社)を読了しました。
読み終えてしまうのが名残惜しいような、そんな良書でした。
さて、名コラムニスト・深代さんのコラムで、私の心に強く刻まれているのは、
「竜治君の死」というタイトルのコラムですが、
このコラムは、昭和49年に京都で小学五年生の男の子が、
自殺した母親を悲しんで後追い心中した事件について書かれたものです。
本書でもこのコラムが取り上げられていました。
深代さんと長い交友のあった涌井昭治さんの「ある墓碑銘」によると、
このコラムを書き終えた時、
深代さんの目にあふれるほどの涙が浮かんでいたそうです。
筆者の後藤さんは、このコラムを次のように解説されています。
『深代のコラムとしては珍しく、起きた事実に対し、
多分に想像しうることだけを記して、そのまま筆を離したという気配がある。
それ以外にできなかったのだ。
精緻な考察や気の利いたレトリックを酷使した言葉を連ねたとて何になろう。』
ところで、長野県軽井沢町で起きたスキーバス転落事故で、
前途ある多くの大学生が犠牲となりました。
あまりの惨事に言葉を失うと同時に、
亡くなられた大学生と、そのご家族の無念さを思うとき、
胸が張り裂けそうな気持ちになります。
昨日の朝日新聞「天声人語」では、「ひしゃげたバスの惨事」というタイトルで、
この事故が次のように書かれていました。
『4年前、群馬の関越道で7人が亡くなったバス事故は記憶に新しい。
31年前には長野で、スキーバスがダムに転落して大学生ら25人が死亡している。
つらい教訓は、有効に生かされてきたのだろうか。
今回の原因はまだわからないが、
いきなり前途を絶たれた人と遺族の無念に胸が詰まる。
最高のサービスは道中無事に送り届けることに尽きるはず。
不安と道連れの旅に、格安も激安もない。』
このコラムを読んで、もし深代さんだったら、
今回の「不条理な事故」を、どのような筆致で世に問うただろうかと思いました。
後藤さんは、先ほどの解説に続いて、
「すぐれたコラムニストになる素養としての条件は何だろうーーふとそう思う」と、
次のように書かれています。
『知識、教養、体験、見識、文章力……いずれも大切だ。
ただ、このようなものは、やがて迎える月日のなかで蓄積され磨かれていく。
畢竟、文は人なりであるならば、
要に位置するものは、人としての器量や度量と呼ばれるもの、
さらにその芯にある〈心根〉であろう。』
なお、本書の「あとがき」で後藤さんは、
「本書は、一人の新聞記者の生涯を通してたどった戦後の新聞史でもある。」
このように述べられています。
新聞と新聞人への熱い思いが伝わってくる本で、
後藤さんの文章も深代さんに負けず劣らず素晴らしく、是非一読をお薦めします。