先月29日の朝日新聞一面コラム「天声人語」は、「正解のない授業」という内容で、
次のようなことが書かれていました。
『道徳はてごわい教科だ。文部科学省による小学校の学習指導要領には、
「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養う」と記されている。
ソクラテスは死の直前に「ただ生きるのではなく善(よ)く生きる」大切さを説いた。
人類の永遠のテーマを学ぶ場なのだ。‥‥
‥‥道徳で伝統を考えるとき、実践哲学科の教科書を和訳した「ドイツの道徳教科書」は参考になる。
道徳的な信念や習慣を「時の流れとともに、変わることもある」と定義した。伝統も、不変ではない。‥‥』
う~む‥‥。今の今まで気がつかなかったけれど、学校で道徳の授業を受けることによって、
知らない間に哲学的な考え方を学んでいたのですね‥。まさに正解のない学問だと思います‥‥。
そして、翌日30日の朝日新聞一面コラム「天声人語」は、「さようならの季節に」という内容で、
谷川俊太郎さんの詩が、次のように引用されていました。
『別れの季節である。〈ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない〉。
谷川俊太郎さんの「さようなら」は、読むたびに涙腺が緩む。
ひらがなで書かれたこの詩で、子どもは親に別れを告げる。
桜並木の下を歩き、大通りを信号で渡り、ひとりで進む。大人になるために。
「さようなら」が心に染みるのは、別れのさびしさはもちろんだが、
濁点を含まない澄んだ響きのせいもあると思う。
語源を調べると、「そういうことならば」を意味する「さ様ならば」が近世に変化して、
「ば」が省略されたとある。‥‥』
はぃ、このコラムを読んで、谷川俊太郎さんの「さようなら」を読み直してみました。
〈おかあさんごめんなさい/おとうさんにやさしくしてあげて〉‥。
どういうシチュエーションを想像するにせよ、確かに読み手の涙を誘うものがあります‥‥。