昨日、暑さへの緊急避難のために立ち寄った町立図書館で、文藝春秋8月特大号を閲覧しました。
今回の特集は、「現代の知性24人が選ぶ 代表的日本人100人」でしたが、
片山杜秀さんと佐伯啓思先生が、西田幾多郎のことを選んでいました。
難解な西田哲学のことを分かりやすく述べられていたので、その概要をメモして帰った次第です。
『人間が理性を保った一貫した存在であろうとするのが、西洋哲学の伝統。
主観と客観は分かれているというのがその前提。
一方で、西田の場合は「純粋理論」と言い出して、客観的な世界と主観的な自意識に分かれる前の、
ただ無心になっている時間が人間の基本だと考える。
「我思う、ゆえに我あり」でなく、赤ん坊が泣きたいときに泣くように、
思いと行為が一体化している忘我の境地に人間の根源性も至上性もるのだと考えた。
そうすると立派に判断できる人間が偉いとか、そうできない人間はだめだとか、
そういう人間観が克服される。人間誰しも無心になる。
すべての人間にそれぞれの無心があり、無心を感ずる人間みなに意味がある。
誰も取りこぼさず、強者に靡かず、ひとりひとりの無心のありように虚心坦懐に思いを馳せる。
赤ちゃんも「恍惚の人」もみんな人間です。弱者も強者もない。
日本人の弱さみたいな部分に発想の根底を置いて、西洋の御膳をひっくり返した。』(片山杜秀)
『「死の事実の前には生は泡沫の如くである。
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。」
‥‥西洋思想の根源をなす「主体」と「客体」の分離の先に、それが分岐しない「純粋経験」がある、
とする思想は、後になっていっそう深められ、「絶対無の場所」という独特の概念を生み出した。
西洋思想があくまで「有の思想」だとすれば、日本の哲学は「無の思想」である。』(佐伯啓思)
緊急避難で立ち寄った価値がありました。「あまりの暑さ」のおかげです‥‥。(苦笑)