しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

高過ぎた「昭和歌謡の実力」

今日は町立図書館に行って、6月9日(日)から15日(土)までの

朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。

この一週間で印象に残ったのは、三つの「ことば」でした。


まず、6月9日(日)は、マウリツィオ・ポリーニ

「私たちが音にしなければ、同じ時代を生きているはずの天才を葬ってしまう」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『音楽は同時代の作曲家の「声」。「今でなければ表現できない何かを表現している」と、ピアニストは言う。

 だからそれを人々に伝えるのは「演奏家の義務」だと。そう考えたからカバーする音楽も多岐にわたった。

 演奏はインタープリテーション、つまりは書かれた作品を解釈することだから、

 それはつねに批評されてきたのか。本紙の追悼記事「惜別」(5月18日夕刊)から。』


なるほど、音楽は同時代の作曲家の「声」ですか‥。

ところで、音楽といえば、6月18日付けの「溜池通信・不規則発言」で、「かんべえ」さんが、

この半世紀、世界の音楽はどんどん変化したことを踏またうえで、次のようなことを述べられていました。


『その点、日本の音楽はどうだったのか。

 例えば演歌というジャンルは、まったく変化がないままに衰退の一途を辿っている。

 あれも森進一が「襟裳岬」(1974年)を歌って、細川たかしが「北酒場」(1982年)を歌った頃までは、

 まだしも新しい路線を目指そうという心意気があった。今は誰か、そういう努力はしているのだろうか。

 石川さゆりの次の世代の歌手って出てくるんだろうか?ちょっと変化への努力がなさ過ぎるのではないか。

 逆に言えば、昭和歌謡の実力が高過ぎたのかもしれない。‥‥』


はぃ、「かんべえ」さんはこの発言の後、振付師のAkaneさんがダンス・パフォーマンスで選曲する

岩崎宏美の『シンデレラハネムーン』(1978年)や、渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』(1986年)

を例に挙げて、昭和歌謡は「歌詞もすごいんだが、この時代の曲はとにかく歌唱力も半端ない」

と発言されてますが、「オヤジ世代」の私も、まったくそのとおりだと思います。

逆に、娘や孫娘が好む「今の音楽」の良さが、さっぱり理解できません‥。

(だから、今どきの歌手が登壇する「紅白歌合戦」にも興味がなくなりました)


愚痴っぽいに日記になってしまいました。ご容赦のほどを‥‥。